「五箇条のご誓文は、民主主義の神髄」

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会長・政治評論家 屋山太郎

 日本人の外交下手を痛感したのは、中学校一年生の時だ。昭和20年5月、東京への最後の空襲があって、家族は命からがら逃げ出した。想い出に残るものが全部消えたが、子供心に戦争という勝負をすれば、負けた方が全部を失うのは当然だと思っていた。その諦めの気持ちが失せて「戦争を始めたのは誰だ!」と怒るようになったきっかけは、GI(アメリカ兵)の東京への進駐である。当時、日本では軍靴が不足し、戦死したり、除隊した軍人の古革靴を集めて再利用していた。私の従兄は「靴が合わない」と我が家に来ては、靴に木材を詰めて大きくしていた。
 こういう困窮した想い出しかない時に、GIが履いている靴は、全員が新品である。一目で彼我の物量の差が分かる。街でGIが子供にチョコレートを配っている。最初は敵のものを貰うことに躊躇したが、決心して貰って食べた。こんなおいしいものが世の中にあるのかと仰天してしまった。父などはこっそりと「物量の差で負ける」と言っていたものだが、自分は内心、父のことを「国賊」と思って信じていなかった。
 日本は1868年明治維新を断行する。そこを近代日本の誕生日だと考えると、26歳で日清戦争、36歳で日露戦争、50歳で第一次大戦(シベリア出兵)、63歳で満州事変、69歳で日中戦争、73歳で太平洋戦争。一生戦争をしているようなものだ。
 太平洋戦争を思い留まる最後のチャンスは1921~22年のワシントン会議だったと思う。日露戦争に勝った日本は太平洋の覇権を狙うのではないかと米国は怖れた。そこで米国は英、仏などと組んで軍艦の保有率を英5、米5、日本は3と決めた。実質的には10対3の軍艦比率である。
 明治元年、天皇は五箇条の御誓文を下し、その第一条に「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と述べた。これはまさに「民主主義」の神髄であってこの道を愚直に辿って行けば、戦争など起こらなかったはずだ。 
 大学の卒業論文のため、五箇条の御誓文に関わらず日本が「何故無謀な戦争に至ったか」を調べたことがある。旧憲法では天皇は陸海軍を統帥し、軍人は天皇を輔弼(ほひつ)することになっている。しかし軍人は軍事予算が少ないと言って陸軍、海軍大臣が入閣を拒否するなど我儘放題になる。そこで、首相に軍人を任命し、陸軍・海軍を抑えようとする程、軍国化していく。
 明治以降、軍人出身の総理大臣は黒田清隆、山縣有朋、桂太郎、山本権兵衛、寺内正毅、加藤友三郎、田中義一、斉藤実、岡田哲介、林銑十郎、阿部信行、米内光政、東条英機、小磯国昭、鈴木貫太郎と実に15名にもなる。明治以来の総理大臣合計29名の過半数が軍人だった訳だ。「広く会議を興し」も「万機公論」も無になったと痛感し、初めて米軍施政を受け入れる気持ちになった。
(令和3年2月10日付静岡新聞『論壇』より転載)