忘れ去られた北朝鮮帰国事業、幻のパラダイスに憧れた人々

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政策提言委員・元公安調査庁金沢事務所長 藤谷昌敏

 報道によると、北朝鮮帰国事業で人権を侵害されたとして、日本に脱北した者5人が北朝鮮政府を相手取り計5億円の損害賠償を求めた訴訟をめぐり、東京地裁は8月16日、第1回口頭弁論を10月14日に開くと決めた。弁護団によると北朝鮮政府を相手取った訴訟は初めてという。北朝鮮とは外交関係がなく、裁判所の掲示板に一定期間、関係書類を公示することで相手に届いたとみなす「公示送達」の手続きを取った。北朝鮮は昭和34~59年、「地上の楽園」と宣伝して在日朝鮮・韓国人と日本人配偶者ら家族の北朝鮮への集団的移住・定住を推進した。日本政府も協力し、日本国籍者を含む93,000以上が渡航したとされる。民事訴訟法では、日本の裁判所が国際裁判の管轄を持つのは不法行為が日本であった場合とされている。弁護団は「虚偽宣伝は日本国内で行われており、日本の裁判所で争える」などとして平成30年8月に提訴していた(8月16日付け産経新聞)。
 
 北朝鮮帰国事業が始まったのは、1959年12月14日、975人の在日朝鮮・韓国人を乗せた船が日本の新潟港から出発したことから始まる。以降1984年までの25年間で、延べ180回にわたって約93,000人以上の人々が日本を後にした。その中に約1,800人の日本人妻を含む6,800人の日本国籍者も存在していた。当時、朝鮮総聯らによって、「北朝鮮はパラダイス」と宣伝されていたことを信じた在日朝鮮人の人々を待ち受けていたのは、階級差別と人権侵害の嵐だった。北朝鮮の敵とみなされて「不穏分子」「日帝スパイ」などとの言いがかりを受け、多くの者が政治犯として強制収用所に送られ、激しい拷問や重労働の果てに死亡もしくは行方不明となった。
 
北朝鮮帰国事業の背景には朝鮮戦争による疲弊があった
 この北朝鮮帰還事業が始められた背景には、北朝鮮が朝鮮戦争による極度の労働力不足を解消し、人質にして在日韓国人の資産を獲得する目的があったと言われている。事実、多くの帰国者が炭鉱などの過酷な労務に強制的につかされ、スパイや政権批判の罪で政治犯収容所に送られて、強制労働に従事したことは労働力不足に悩む北朝鮮にとって大きな福音となった。そして親族が人質となった在日朝鮮人は、毎年数億円から数十億円の資金を北朝鮮に送るようになった。これは2011年度を例とすると北朝鮮の国家予算約182億円のうち、ほぼ4分の1以上を占めるほどの膨大な額であり、その資金集めは朝鮮総聯が主導していた。在日朝鮮人が北朝鮮の資金獲得のための道具に過ぎなかったことは、1999年に朝鮮信用組合破綻問題が噴出したことでも裏付けられる。この破綻の根本的原因は、朝鮮総聯が北朝鮮から資金獲得を迫られ、傘下の朝鮮信用組合を使って強引な手段で在日朝鮮人から資金を集めたことにあったからだ。
 
朝鮮総聯、進歩的文化人、メディアなどが帰国事業を扇動した
 1955年5月、日本において朝鮮総聯が結成され、北朝鮮では金日成の肝いりで1957年から「千里馬運動」という「5カ年人民経済計画」が実施された。1958年9月には、金日成が「在日朝鮮人の帰国を熱烈に歓迎し、すべての条件が保障されている」と発表し、それを受けて朝鮮総聯は「帰国者の拡大」を目標に掲げて、「北朝鮮は地上の楽園だ」と礼賛し、「住宅、食糧、およびその他の生活に必要なすべての物が保障されている」「医療費はすべて無料であり、希望した仕事につける」「3年もすれば里帰りできる」などと在日朝鮮人を扇動した。日本のメディアや進歩的文化人もそれを後押しした。
 また、当時、在日朝鮮人は、日本国内の差別感情から安定した職業に就きにくく、失業率の増加と生活保護受給率の増加を招いていた。1955年末の在日朝鮮人の生活保護受給率は24%で日本人の10倍以上となり、日本政府は財政逼迫を理由に、その後1年半で受給者を約4割削減させた。このことは在日朝鮮人の生活をさらに困窮化させ、在日朝鮮人が北朝鮮に渡航する大きな動機となった。
 
日本政府にも責任があるのか
 日本政府に対する責任追及のきっかけとなったのは、2004年に日本経済史・思想史を専門とするテッサ・モーリス・スズキ氏(当時オーストラリア国立大学教授)が、赤十字国際委員会(ICRC :International Committee of the Red Cross)の文書を取り上げたことによる。スズキ氏は、「日本政府は早くから大量帰還政策を秘密裏に推進し、日本赤十字社が『国益』を代行したものと思われる」「1959年の北朝鮮帰国事業が始まるその3年近くも前から、日本政府と日赤は、在日朝鮮人の大量『帰還』についてICRCに働きかけていたことが確認される」「北朝鮮と在日本朝鮮人総連合会だけでなく、日本政府と日本赤十字にも帰還事業について説明する責任がある」と日本政府の責任追及の声を上げた。これは「日本政府策略説」と呼ばれるものだ。
 
 筆者は、日本政府の責任について、「北朝鮮側と国内左派勢力には、帰国運動を認めなければ非人道の名目で日本政府をゆすぶる意図があった」「帰国の配船や旅費を負担するなど北朝鮮側がほぼ全面的に帰国を主導した」「日本政府は、世界人権宣言に基づく居住地選択の自由という観点から帰国運動に強く反対できなかった」「北朝鮮が帰国者を弾圧することは当初、予測不可能であった」などの理由から、やむを得なかったものと考えている。
そもそも問題化した根本的な原因は、北朝鮮の金一族の支配体制に内在する不平等、人権侵害、差別が最大の要因なのだ。日本政府は、責任追及の声に耳を塞ぐことなく、毅然として対応し、北朝鮮に対して、帰国者、日本人妻らに対する謝罪と賠償、名誉回復、そして帰国者の自由往来を強く要求するべきだ。