日本のノーベル賞受賞とモノ作り精神
―モノ作りを軽蔑する韓国社会の民族性と弱さ―

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会長・政治評論家 屋山太郎

 理系の知識に疎い私は日本で、毎年のように生れるノーベル賞受賞者たちの研究生活を想像して感嘆する。米国は別にして、日本だけがなぜ理系の受賞者が多いのだろう。韓国の新聞が「日本に学べ」と叫んでいるそうだが、日本だけが圧倒的に強い理由は私でもわかるような気がする。日本人はモノを作り出すことに熱中する一方、モノ作りに敬意を表する社会的基盤がある。
 世界には創業200年以上の企業が5586社(合計41カ国)あるが、そのうち日本は3146社。韓国には200年を超える企業はない。戦争が多く社会が安定していなかった理由もあるが、韓国人はもともとモノ作りや商売に社会的価値をもたなかった。
 韓国に儒教が入ってきたのは13世紀頃だが、儒教は「士・農・工・商」の社会的な階級をこしらえた。それに先立って日本にも伝来したが、既に神道、仏教が定着していたため、儒教は武家社会の序列を構成するのに役立った。武士は統治に当たって「士」は何も働かないのだから「質素に生活せよ」と自戒させた。
 韓国は自ら儒教の元祖と名乗ったぐらいだから、日本とは全く違う普及を遂げた。
 朝鮮の支配階級を両班(ヤンバン=韓国読み)というが、その両班が民衆支配のため、儒教を利用した。中国の科挙のように、文と武の試験を行って官僚を雇った。しかし官職が売買されるようになって、腐敗が進んだ。
 19世紀の英国の旅行家、イザベラ・バード著『朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期』によると、李朝末期は「盗む側(王族・両班)と盗まれる側(平民・奴隷)の二族しかいなかったと書いている。米国の外交官グレゴリー・ヘンダーソンによると、李朝の社会の構成比は奴隷43%、良民(常民)50%、両班7%だったという。この伝統は日本併合に当たって全廃されたが、韓国社会ではその残滓が残っているらしい。
 モノを作ることを軽蔑した結果、車輪や丸い桶を近代まで作ることができなかったという。韓国の就職風景を映したテレビを観ることがあるが、受験者がこだわるのが文系と事務系中心である。若者はモノ作りに全く興味を示さない。猛烈に勉強して進学率は高いが、その中で満足できるのはトップ企業に入った何十人かだという。日本では自分の好きな分野があればそこに行く。理科系で好きなモノがあればそれを一生やっていくのが人生の幸せという考え方をする。
 韓国社会はほんのひと握りの財閥が韓国の富の殆どを握っており、モノ作りを内心軽蔑しつつ、ノーベル賞を待望しても、それはムリというものだろう。社会の価値観を多様化し、どの分野でも平等感を持つ。そういう世の中をまず作ることが先決ではないか。
(平成28年10月12日付静岡新聞『論壇』より転載)