澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -189-
「抗日期」が8年から14年に延びた中国

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政策提言委員・アジア太平洋交流学会会長 澁谷 司

 今年(2017年)1月3日、中国教育部(日本の文科省に相当) 基礎教育二司(局)が、日中戦争における「抗日期」を8年間から14年間とするよう全国の小学校・中学校・高校へ通達を出した(同年1号通達)。
 台湾の国立政治大学歴史学系教授の劉維開によれば、2015年、習近平主席が、1931年から45年までを一貫した「抗日期」として研究するよう各機関に指示したという。
 即ち、「満州事変」(「九一八事変」=関東軍が南満州鉄道の柳条湖近くで起こした事件)が起きた1931年から37年までを「散発的抗日期」(「一面講和、一面抵抗」の「抗日」準備期)、1937年の「盧溝橋事件」(「七七事変」=日本軍と国民党軍が中国共産党の謀略により全面戦争を始める契機となった事件)から、第2次大戦が終結した45年までは「全面的抗日期」として、合計14年間を「抗日期」だったとする。
 今年春期から、小学校から大学に至るまで全ての教材で「抗日期」が14年間へと変わる予定である。教育部の狙いとしては、2015年の「抗日戦争勝利70周年」の延長線で、愛国教育(=「反日教育」)を強化するため、また、共産党による中国統治の正当性を主張するためと見られる。
 従来、中国の教科書では、国民革命軍が北伐を開始した翌年の1927年(上海クーデター<4・12事件>=国民党の蒋介石らの中国共産党に対する反革命クーデター)から37年まで10年間を「内戦期」、「盧溝橋事件」の起きた1937年から45年まで8年間を「抗日期」、1945年から49年(第2次大戦終結から中華人民共和国成立)までを4年間を「内戦期」としてきた。
 そして、中国の大多数の歴史学者や歴史研究家は、1937年から45年まで8年間を「抗日期」とする考え方を支持してきたのである。
 だが、例えば、中国社会科学院研究員の湯重南(中国日本史学会会長)などは、歴史的に使用されてきた8年間という「抗日期」は、当時の特殊な歴史環境下で尊重されてきた。14年間の「抗日期」へ“戻す”のは、歴史の真実を尊重した表現だと言っている。
 我々には、歴史の真実を尊重するどころか、歴史を歪曲しているようにさえ見える。
 興味深いことに、藤原彰をはじめとする我が国の歴史学系学者・研究者は、(日本による対中国)「14年侵略戦争」という概念を支持しているようである。
 さて、中国の歴史研究家の章立凡(父親は章乃器。中国食糧部部長<大臣>を務めたが「反右派闘争」で失脚)が指摘したように、(たとえ「抗日期」が8年から14年になろうとも)誰が「抗日」の主体だったのかは明白である。
 2015年夏、まさに、郝柏村元台湾行政院長(首相。かつて中華民国参謀総長)がBBCとのインタビューで言明したように、8年間の「抗日期」、その主体は、あくまでも国民党であり、決して中国共産党ではなかった。
 そもそも「抗日」は、国民党の蒋介石委員長が中心的に担っていたのであり、中国共産党は補助的役割を担ったに過ぎない。従って、「抗日」に関して共産党と国民党と役割を並列に論じるのはおかしい、と郝柏村はそのインタビューで答えている。
 実は、2015年9月3日、郝柏村は北京で華々しく行われた「抗日戦争勝利70周年」の記念式典に招待された。だが、さすがに郝柏村は「大閲兵」への出席は見送っている。
 実際に日本と正面から戦った国民党が、「抗日戦争勝利70周年」を祝うならまだ分からないでもない(事実、馬英九国民党政権は、2015年7月、新竹の陸軍基地で記念式典を催した)。
 けれども、中国共産党は日本軍と国民党軍が戦うのを仕向けたに過ぎない。日中戦争中、共産党軍は隠れていて、ほとんど対日戦線に加わっていないのである(特筆できるのは、せいぜい「百団大戦」<1940年8月から12月にかけ、山西省・河北省周辺一帯で、日本軍と八路軍115個連隊 40万人との間で起きた戦い>ぐらいではないか)。周知のように、その後、中国共産党は対日戦争で疲弊した国民党軍を叩き、「国共内戦」に勝利している。
 一方、2015年8月末、連戦国民党名誉主席(元副総統)は、与野党の反発があったにも拘らず、訪中を強行した。9月3日の「大閲兵」に臨席するためである。
 訪中2日目の31日、連戦名誉主席は、北京市盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館を訪れ、館内で「一十四年血淚史,贏得醒獅萬世名」(仮訳:14年の血涙史によって、覚醒した獅子が万世の名を得る)という14文字を書き残した。つまり、連戦は中国人による抗日は8年ではなく、14年であるという「中国共産党史観」を受け入れたのだった。