「国際法規を無視する中国・韓国」
―「公」より「私」を優先する儒教国家の神髄―

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会長・政治評論家 屋山太郎

 韓国の文在寅大統領はロイター通信とのインタビューで日本について「慰安婦問題を含め、韓国との過去の歴史問題を解決するために、最善の努力をしていない」と批判した。歴代、韓国大統領は日本に対して「謝り足りない」との決めゼリフを吐くが、日韓両国は1965年、「日韓基本条約、経済協力協定で一切の貸し借りはない」ことを約束したのである。条文を読めば両国関係はきれいに清算されているのがわかる。しかし国交回復後も韓国政府は何度も請求した。宮沢喜一氏の訪韓に当たっても“河野談話”で譲歩し“協力資金”も与えた。それでも対日要求が止まらないから、安倍首相は米政府や国際監視の下で新たな譲歩案を出した。10億円の見舞金とともに慰安婦問題については「最終的かつ不可逆的な解決」にすると朴前大統領と約束したのである。
 安倍首相は「不可逆的」との言葉が入ることで問題を終着させたと思い込んでいる。しかし文大統領は「韓国国民が合意を受け入れられない」と述べ、「合意」の見直しを要求する構えである。日本では「約束」すれば「武士に二言はない」と庶民でも受け入れる。首相の発言を認めないというのでは日本という国が成り立たないと、国民の誰もが思う。
 ところが、韓国の常識では「公」が優先するわけでもなければ絶対でもない。韓国は自ら“本家”だと自称する儒教国家である。儒教は紀元前5、4世紀に活躍した孔子の教えであり、その言葉を弟子達がまとめたものが「論語」である。日本にも江戸の上期に朱子学として入ってきたが、戦国時代が終り、武家社会の安定期に入ってきたから、中国や韓国とは致命的な部分で解釈が違う。
 孔子にある村長が判断を求めてきたという。「子供が自分の親が羊を盗んだ、と告げてきた。どうすべきか」。孔子は「子供が親の罪をかばうのを正直という」と答えた。儒教には「公」の意識はなく、まず守るべきは家族なのである。
 秦の始皇帝は紀元前220年に建国した際、儒教の弊害を見抜いて壮大な「焚書坑儒」を断行した。460人の儒学者を殺害し儒教書を焼き、道教を国教と定めた。華美ではなく教えも優しいからだったという。だが紀元前1世紀の漢末には、道教は廃れて儒教が復活した。「公」の精神がなく、際限なく「私」を追求するのが儒教であって、その本家の朝鮮で半数近い奴隷が発生したのも不思議ではない。
 「公」より「私」を重視するからこそ、文大統領が“国際文書”あるいは“国際公約”についてさえ「国民が納得しない」という反応を示すのは不思議ではない。「私」「一族」を最重視するから、役に就けば役得を得るのは当然だ。とどのつまり韓国は10ほどの財閥があらゆる財と利権を握ることになった。今の韓国の社会構造は日本併合時の韓国。つまり両班(やんばん)(貴族)が4~5%で、残りは平民と奴隷が半分ずつだったのと本質的に変わらない。また中国にも韓国にも「恥」という概念がない。中国も毎年10万人単位で高位の役職者が金を持って国外に逃亡するという。南シナ海に対する国際仲裁裁判所の判決について中国の王毅外相が「そんなものは紙屑だ」と切って捨てた。儒教の神髄というべきか。
(平成29年6月28日付静岡新聞『論壇』より転載)