太平洋戦争終結時の台湾兵と朝鮮兵

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顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男

 「台湾人と日本精神」と題する実に興味深い本がある。平成12年(2000年)に日本教文社から出版された書籍で、著者は蔡焜燦(さいこんさん)という台湾人である。今年7月に90歳で他界された。台湾の実業界では名の知られた人だったようだが、1945年、太平洋戦争の終結を18歳の少年志願兵として岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊で迎えたという経歴を有する。
 私がこの人物に興味を持ったのは司馬遼太郎の「台湾紀行」(「街道をゆく」シリーズ40)を読んだことがきっかけである。蔡氏はこの作品の中で「老台北」(愛称)と呼ばれる案内役で登場するのだが、特に一章を設けて人物紹介されるという特別な扱いを受けている。「台湾紀行」は70歳になった司馬遼太郎が「この本を書くために生まれてきたような気がする」とまで人に語っていた渾身の名著である。
 さて、蔡氏の本の方だが、1945年8月の終戦日前後という特別な時期における台湾出身兵と朝鮮半島出身兵(戦時中は共に「日本兵」であった)の振る舞いの違いが克明に記されている。両兵ともに8月15日を境に出身地が突然に「戦勝国」になるという驚天動地の経験をした。その後の数ヵ月の間に彼らが日本で受けた待遇は「戦勝国兵士」としての破格の優遇であったらしい。
 台湾からの「日本兵」は1942年になって陸軍特別志願兵制度が導入されてから生まれているが、(志願兵制度の開始がもっと早かったとはいえ)朝鮮半島出身者は中将まで上り詰める者が出るほどの優遇を受けたのに対し、台湾出身者はせいぜい大尉止まりであったらしい。ところが、日本人上官の視線は台湾出身兵にあたたかく、朝鮮半島出身兵には冷ややかだったと蔡氏は回想している。この違いがどこから来るのかは興味深いところである。
 志願兵制度について言えば、戦局が容易ならざる状況の中で、日本支配下におかれた台湾からも兵士を募らざるを得なかったものと思われる。注目すべきは、この志願兵募集において台湾の場合は定員の400倍(朝鮮の場合でも約60倍)という多数の応募があったことである。蔡氏はこのことを紹介した後、「こうした事実を振りかえるとき、戦後の韓国が主張するあらゆる日本への協力の“強制”なるものは疑わしいといわざるを得ない。」と断じている。
 蔡氏は創氏改名についても重要な指摘をしている。台湾では創氏改名は許可制で、役所に申請した上で審査を受けねばならず、これが受理されないかぎり改姓名を名乗ることができなかったようだ。これより2年早く「改姓名運動」が始まっていた朝鮮の場合は自己申告制で、蔡氏と同じ奈良教育隊に入隊していた朝鮮出身者は全員が改名していたのに対し、台湾出身者の場合は同期約40名の内、改姓名を名乗っていた者はわずか5名程度だったという。その上で蔡氏は「台湾では創氏改名が“強制”だった事実はない。一方、朝鮮出身者の全員が創氏改名して入校していたことが興味深い」と意味深長な指摘をしている。
 もう一つ、いわゆる従軍慰安婦についても注目される言及がある。氏曰く「引揚者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げてきた20名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。・・・彼女らは口々に、『海南島は儲かるし、それよりも兵隊さんが喜んでくれたんです』と語っていた。そうした生の声には、現代の日本で騒がれるような強制連行の“悲劇”などは存在しなかったことを、私のこの耳がしっかりと聞いている。」と。勿論、台湾人女性と韓国人女性の場合、あるいは慰安婦個々人で状況に違いがあった可能性は排除されないものの、蔡氏の「証言」からすれば、ステレオタイプな慰安婦悲劇像を一律に結ぶことは現実から離れることになるかも知れない。
 ともあれ、蔡氏ら台湾兵が目撃した終戦直後の朝鮮半島出身兵の乱暴狼藉と傍若無人な振る舞いは衝撃的である。祖国に帰還するための引揚列車の中で乗り合わせた朝鮮半島出身兵が、敗戦で消沈した日本人をいびり続け、肩をいからす光景はにわかに信じがたいほどだが、その一方で連合国の一員となった蔡氏ら「中華民国台湾青年隊」にはおべっかを使ってすり寄ってきたという。「弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした」との同氏の目撃談を今の韓国人はどう聞くのであろうか。昨今の韓国内政のドタバタや中国にすり寄る韓国外交を見るとき、蔡氏の指摘はいかにも的を射ているように思えてならない。