澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -272-
中国での贈収賄はそれほど悪い事なのか?

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政策提言委員・アジア太平洋交流学会会長 澁谷 司

 かつて胡錦濤国家主席(当時)が、「共産党の腐敗は甚だしく、これを放置すれば国家の命運に関わる」と指摘した(目下、その胡前主席の息子、胡海峰の腐敗が疑われ、当局に調査されているという)。
 その後、習近平国家主席が登場し、「反腐敗運動」という名の下に、(法律ではなく)共産党の規約(=「双規」)で「上海閥」を主敵として打倒している。
 改めて言うまでもなく、中国においては、法律よりも党のルールが上位にある。仮に、我が国の自由民主党の党内規則が、刑法よりも上位にあったら、誰しも呆れかえるに違いない(結局、「中国の特色ある社会主義」とは、単に「近代化」していない「前近代的社会主義」に他ならないのではないか)。
 無論、「反腐敗運動」を推し進めた習主席および王岐山(前中央紀律検査委員会書記)が、クリーンなはずもない。特に、高級幹部なら、誰でも自然と巨額のカネが懐に転がり込んでくるからである。
 とりわけ、王岐山一族は、かつての部下(陳峰)の会社、海航を完全に私物化し、30兆円あるいは300兆円もの財産を保有するという疑惑を持たれている。また、王岐山は、妻の姚明珊(姚依林の娘)との間に子供がいない。そのためか、王には何人かの愛人がいて、最低でも4人の隠し子がいると言われる。
 ところで、考えてみれば、「反腐敗運動」という名の“権力闘争”が中国経済を冷え込ませているのではないか(同運動のため、多くの官僚が仕事への熱意を失っているのも、その一因であろう)。
 社会科学は自然科学と違って、実験が難しいので、法則性を見つけ出しにくい。けれども、個人と国家間の「パラレリズム」及び個人と国家間に生じる「パラレリズム」とは反対となる事実(仮称「ねじれ現象」)は注目に値しよう。
 もし国民1人1人が皆、裕福になれば、当然、国家全体も豊かになるだろう。国民各々の知識が豊富になれば、国家単位の知的水準も上昇するだろう。これらが典型的「パラレリズム」である。
 ところが、「個人の“悪徳”は国家の“美徳”」になる場合がある。例えば、個人の浪費は決して褒められた事ではない。しかし、国民が皆、浪費すれば、社会全体の消費が増え、景気が良くなり、国のGDPは大きくなるだろう。「パラレリズム」と正反対の状況が生じる。
 「逆もまた真なり」で、時には「個人の“美徳”は国家の“悪徳”」となる。個人が倹約し、せっせと貯蓄に励むのは、通常“美徳”と考えられる。ところが、国民が皆、積極的にカネを使わなければ、消費は減る。景気が悪くなり、国のGDPは伸びないだろう。これまた、「パラレリズム」と逆の状態となる。
 一般的に、先進国では“贈収賄”は悪事と決まっている。ほぼ間違いなく、犯罪となるだろう。けれども、中国では、数千年にわたり、“賄賂”が伝統的文化(生活の一部)となってきた。つまり“賄賂”が社会の潤滑油の役割を果たしてきたのである。
 習近平政権は、この“賄賂”を厳しく禁じているが、“賄賂”を完全否定する事が果たして良いのだろうか。今の中国では、「官官接待」・「官民接待」等が、公には憚れるようになった。そのため、社会全体にカネがまわらなくなっている。そのため、消費が冷え込んだ。これでは、経済が成長するわけがないだろう。
 今年(2017年)の「19大」では、江沢民・胡錦濤・習近平3大の「国師」(ブレーン)、王滬寧が政治局常務委員入りした。このような優秀な人物が入局したにもかかわらず、相変わらず、中国の景気は大して良くならない。「習近平思想」などという空虚なイデオロギーを振り回しているからだろう。
 おそらく、来春から李克強首相を、4人の副首相がサポートするようになるのではないか。現時点では、胡春華・孫春蘭・劉鶴・韓正らの名前が挙がっている。劉鶴は、習近平主席の側近で、李首相の経済政策を厳しく批判していた人物である。今後、李克強と劉鶴の間で対立が生まれないとも限らない。
 周知のように、現在の北京政府は、「サプライサイド経済学」を標榜しながら、大きな政府(「国進民退」=国有企業が伸張し、民間企業が退潮する)状態である。この矛盾する経済政策こそが、習近平政権の限界を露呈しているのではないか。その他、「ゾンビ企業」をどのように処理するのか、財政赤字をどう立て直すのか等、難問山積である。