健全な肉体と健全な精神は無関係

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政策提言委員・元参議院議員 筆坂秀世

不健全な肉体でも健全な精神が
 『週刊新潮』に、数学者であり、エッセイストでもある藤原正彦氏の「管見妄語(かんけんもうご)」というコラム欄がある。8月16・23日夏季特大号には、「健全な精神」と題するコラムが掲載されている。要旨、次のような内容である。
 古代ローマのユウェナリスという風刺詩人の残した詩に、“健全なる精神は健全なる肉体に宿る” と訳されている諺がある。だが原詩の意味はそうではなく、「富、地位、才能、栄光、長寿、美貌などを願ってもろくなことはない、願うべきは『健全な肉体と健全な精神』という趣旨」だそうだ。健全な「肉体」と「精神」はあくまでも並列なのだ。ところがナチス・ドイツなどがこの趣旨を捻じ曲げ、「あたかも健全な肉体と健全な精神が不即不離のごとく都合よく解釈」したのだという。
 別段、大層な話ではない。ごくごく常識的なことだ。だが存外、人というものはこの常識を忘れてしまうことがあるものだ。
 NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組が評判になっている。私も何度か見たことがあるが、確かに面白い。5才のチコちゃんが問いかける素朴な疑問に、大人が答えられないでいると、チコちゃんに「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られるというのがこの番組の作りになっている。例えば、「『どっこいしょ』ってどういう意味?」「『ポン酢』の『ポン』って何?」「どうして北海道だけ道っていうの?」というような質問が、チコちゃんから浴びせられるのだ。なかなか答えられないのが普通だ。そうすると「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られる訳である。
 藤原氏のコラムを読んで、このチコちゃんの決め台詞を思い出した。
 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という言葉の欺瞞と誤謬は、少し考えればすぐにでも分かることだ。そもそもこの考え方の根底には、障害者へのとんでもない差別と偏見が横たわっている。藤原氏も指摘するように、三重苦のヘレン・ケラーや車椅子の天才物理学者ホーキング博士を持ち出すまでもなく、不健全な肉体であったとしても立派な人はいくらでもいる。
 その逆もまた然りである。健全過ぎるほどの立派な肉体を持っていたとしても、その精神までが健全であることの保証には全くならない。
 あらゆるスポーツに共通していることの1つは、それぞれのスポーツに適合した強靱な肉体を鍛えあげるということだろう。もし「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ということが真実なら、スポーツ選手は誰でも「健全な精神」を持っているということになる。だがそんなことはあり得ない。