日米安保条約の将来
―特別な関係の先にあるもの―

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政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所教授 佐藤丙午

日米安保条約の課題
 1960年に日米安全保障条約が締結されて以降、日米の安全保障関係は幾つもの挑戦に直面してきた。
 日米安保については、その時代で直面した課題を克服し、強化され続けてきた、と楽観的な評価をするのは不適切である。強化に向けた動きは、常に一定方向に向いて発展してきたとは言えず、日米両国ともに、機会を逃したケースや、最適な解決に導けなかった事例も存在する。
 しかし、現状の体制を積極的に評価する場合、日米安保の歴史において、日本が米国に一方的に依存していた時期から出発し、日本の役割の拡大が一貫して図られてきたと評しても間違いとは言えない。1978年の日米安保協力の指針(所謂、旧ガイドライン)の策定、1997年の新ガイドラインにおける日米安保の再定義、ミサイル防衛システムへの参加、そして2017年のガイドライン改定など、防衛省・自衛隊の活動範囲及び内容は、大幅に拡大していった。
 
「同盟管理者」の存在について
 この変化について、日本の主体的な防衛政策及び法制度等の変更が、日米安保の変化につながったと理解するか、それとも日本国内の一部の政治勢力が批判するように、米国の戦略の変化に基づく「外圧」が、日米安保の変化を不可避にしたのか、という議論が存在する。
 しかし、戦略環境の変化に応じ、日米安保の下での相互の役割が変化するのは自然である。その変化は防衛構想の変化に表れており、第二次世界大戦後の防衛力の基盤整備期を経て、70年代の基盤的防衛力構想の下で「存在抑止」を重視する状況に対応し、そして冷戦後に日本の周辺事態での日米協力の在り方(対処能力)を確立する方向に至り、そして中国の台頭を受けて、「安全保障のパラドックス」の管理などが、歴史的な発展段階の中で見られた。
 「同盟漂流」と形容された、冷戦後の日米安保の動揺、米海兵隊員による沖縄少女強姦事件を契機とする反基地ナショナリズムの高揚、そして日本の民主党政権下の日本の政策の迷走など、同盟は危機に直面した。同盟関係の危機の修復・発展は、両国の同盟管理者(alliance manager)達の努力なしに達成することは不可能であったであろう。彼らは、変化する戦略環境や日本の国際的地位の変化の中で、必要な戦略のあり方を模索し続けた。
 日米安保の歴史の中で、同盟を管理する政策担当者が連続して登場し、特に米国において、彼らが政権及び米国の安全保障政策共同体の中で重要な地位を占めてきた意味は大きい。