安倍外交は第3の聖徳太子路線の踏襲
―中韓との疎遠が日本国の安寧―

 
理事・政治評論家  屋山太郎 

 自民党の二階俊博総務会長は安倍晋三首相の対中・韓外交に強い不満をもっている。二階氏は既に朴槿恵大統領には、安倍氏にとって禁句である「慰安婦に補償すべきだ」などということまで喋っているらしい。額賀福志郎元防衛庁長官は「平成研(額賀派)は自民党政権の真ん中を歩いて来た。自衛以外の理由で自衛隊の戦斗はあり得ない」と言う。これまでの自民党主流派なら、安保法制など許せないと云わんばかりだ。
 昔の親中派、主流派の主だった面々を掘り起こしてみると、野中広務、二階俊博、野田聖子、古賀誠、山崎拓、谷垣禎一ら各氏といったところか。このうちの約半分は既に議席がなく、「二階派」という独立派閥でもない。“旧主流派”の思想は少なくとも半分は消え去り、残った人達も主要な働き場は与えられていない。
 安倍氏が強引に自民党を右傾化させたかのように解説する人がいるが、日本の周辺の状況が様変わりしたため、新情勢に合わせて急遽、日本の政策を転換しているのが真情だろう。内閣府の2014年の調査では、中国に対し「親しみを感じない」という人は83.1%で、2年前の12年は80.6%。嫌中度は極度に上がっているのである。韓国に対して「親近感を感じない」と答えたのは66.4%で、これも2年前の59%から上昇している。
 世論調査で8割、6割の人が嫌いだという国を相手に友好関係は築けない。中・韓との関係悪化を安倍氏の登場のせいと捉えている人が多いが、それ以前の友好関係はどうして維持されたか。南京虐殺30万人と言われても、慰安婦20万人を性奴隷にしたと言われても、ひたすら恐れ入って反論もしなかった。中・韓は日本を“非道徳国家”に貶めて、世界から孤立させ、中・韓に対して土下座せざるを得ない状況を作ろうとしていた。いや、これからも同じ手を使うつもりだろう。
 日・中間の関係がこじれたのはこれが最初ではない。607年に聖徳太子が隋の煬帝に書を届けたのが“対等外交”の申し入れと言われる。これに先立って何百年にも亘って、大和朝廷は中国の干渉に辟易し、決別の書を突き付けた。その後、足利幕府時代に明との勘合貿易などが行われたが、正規の外交ではなかった。
 1980年代、列強の中国大陸進出に応じて日本も中国侵略に加わり、1895年清国に勝った。これに先立って福沢諭吉は「支朝(中国・南北朝鮮)と交わっていたのは、政治的にも文化的にも彼らと同一視される。仮に組んでも肩を並べられない」旨の「脱亜論」を発表した。主旨は第2の聖徳太子論である。日本の永い歴史の中で「支朝と深く交わらなかった時」だけが成功している。戦後も72年の日中共同声明までの22年間は幸せだった。安倍外交が、中韓に対する態度を割り切って成功しているのは「中国とは意味なく手を繋がない」という第3の聖徳太子路線を採っているからだ。


(平成27年3月18日付静岡新聞『論壇』より転載)

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