下村文科相の交代は日本を後退させる
―些事に拘らず教育改革を推進せよ―
下村文科相が新国立競技場の白紙撤回をめぐる責任をとって辞任を申し出た。安倍首相は10月初めに行う内閣改造まで「辞表は受け取らない」と述べたと言う。新聞によっては「文科相交代」と打ったところもあるが、こんなことで、下村文科相を交代させるべきではない。
戦後の日本の教育界は極端に偏向し、正すべき手段が見つからないまま現在まできた。私は73年に月刊文芸春秋に「日教組解体論」を書いた。内容は教師の偏向やずっこけは日教組のせいだと信じていたからだ。最近でもそう思っている大臣が「日教組をぶっ潰せ」と叫んで、辞任に追い込まれた。日教組は70年代、教師の86%を占めていたが、新加入する教師が激減して、26%程度に減っている。にもかかわらず教育現場も教育内容も一向に変らなかったのはなぜか。
一つは教育委員会制度にあった。従来、教育委員は首長が5人程度を任命し、議会の了承を得る制度だった。最高責任者の教育委員長は互選によるお飾り的な存在だった。実体はプロの教育長が仕切っているのだが、このポストは日教組の推薦や支持がなければ殆ど任命されない。要するに日教組が“識者”と呼ばれる人達を操って利用していたのである。この組織を利用して、日教組は教科書を日教組の意に沿ったものを下読みと称して教育委員に届ける。教育委員はそれを参考に教科書を選ぶわけだが、違う教科書を主張するには、差異を主張しなければならない。大事な仕事だから「今までのまま」となる。
こういう膠着状態に対して下村文科相は、@教育委員長の首長による指名 A教育に対して首長を関与させる方針で教育委員会を活性化した。加えて教科書選定に当たって“下読み”の慣習を止めるよう通達を出した。
この新しい制度で今年の教科書選定は歴史と公民で保守系の教科書を選ぶ市町村が格段に増えた。殆ど全ての教科書が日教組系ばかりというのも不可思議な現象だったが、教科書会社も日教組に迎合しなければ採択されない弱点があった。
これで26%の組合員が全教育界を牛耳っていた理由ははっきりした。
池田勇人、佐藤栄作内閣の頃までは、文部大臣(現文部科学相)には天下の良識といわれるような大物を据えたものである。明治政府は6省でスタートしたが、その1つは文部省だったくらいだ。政界が自社馴れ合いに陥ると文部省は3流官庁に成り下がった。中曽根内閣の時、重要閣僚に任命されると思い込んでいた藤尾正行氏は文相に任命され、怒り心頭だった。雑誌に「日韓併合は韓国側にも責任」と話して取り消さず、国際問題になったため、首相は文相を罷免した。藤尾氏は、教育分野で何もできないところに、「オレを押し込めた」と逆恨みしたわけだ。
私も「日教組解体論」を書いて以来、改革の手段を思いつかなかった。橋下徹氏(大阪市長)府知事になって始めた教育改革に安倍首相は感嘆した。両氏には通ずるものがあるが、実際に大改良を実行したのは下村氏だ。
(平成27年9月30日付静岡新聞『論壇』より転載)
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