○日中両国は、深刻な「政治の時代」に突入している
国際社会において、紛争や戦争へ傾斜していく過程を見ると、経済の時代から政治(外交)の時代へ、そして政治の時代から軍事の時代へと「情勢悪化のスパイラル・モデル」を辿って行く様がよく分かる。
平和な時代は、「地経学(Geo-Economics)」理論家などが主張する経済至上(万能)主義が幅を利かせ、また、ひたすら経済活動に専念できる経済の時代である。しかし、一旦平和が揺らぎ、或いは貿易摩擦など経済上の問題が大きくなれば政治的解決が求められ、所謂、政治の時代へと移行する。政治的解決に成功すれば再び経済の時代へと情勢を引き戻すことができるが、失敗すれば、最後は力による解決、即ち国家の「最後の砦」としての軍事の時代へ突入する。これが、国家間における「情勢悪化のスパイラル・モデル」の一般的展開である。
日本と中国の現状を如何に判断するかは議論の分かれるところであろう。
しかし、中国がわが国に突き付けている歴史認識に名を借りた反日運動(「歴史戦」の仕掛け)、尖閣諸島の領有権問題、日中中間線付近における資源エネルギー(ガス田)の開発問題、軍事力の急激な増強近代化とわが国周辺における活動の活発化などの挑戦的・挑発的行動によって、日中間の平和は大きく揺らいでおり、両国はすでに政治の時代に突入し、かなり深刻な情勢に陥りつつあると見るべきであろう。
どのような市場(マーケット)でも、安全保障の枠組みの中において機能する。その事実を見落としていた経済至上(万能)主義者の丹羽宇一郎氏を在中国日本大使に任命したのは、明らかに当時の菅総理大臣の誤った情勢認識と、政治主導で決めたとの軽薄なパフォーマンスによるミスキャストとしか言いようがない。
生存の確保や安全の保障は、我々が呼吸する空気のように天与のものと考えられがちで、それが失われたときに初めて認識される傾向が強い。今、多くの日本国民は、国内外の厳しい情勢に直面して、そのことを痛切に感じつつあるのではなかろうか?
○平和は、守るべき至上の価値か?
平和は、人類にとって、あるいは国家国民にとって守るべき至上の価値であるのか―?今も昔も変わらない、我々に突き付けられた根本的な問いかけだ。
オランダの法学者で、「国際法の父」、「自然法の父」と呼ばれるグロティウスは、その主著「戦争と平和の法」において「平和とは単に戦争の前ないし後を意味するに過ぎない」と述べている。また「広辞苑」(第五版)を繙くと、平和とは「戦争がなくて世が安穏であること」と説明している。つまり、「平和とは、戦争のない状態である」と理解するのが一般的なようである。
人類の歴史は、おおよそ3千4百年余であるが、その間、世界が平和であったのは3百年足らずだといわれている。10年間に換算すると、そのほとんどの期間(9年11か月)、世界のどこかで戦争が繰り広げられ、わずか1か月間が平和であったことになる。
人々は、平和な時にはそれを当然視し、平和の対立概念として戦争を忌み嫌い、拒絶する。しかし、現実に、戦争を常態化し、逆に平和を例外的な状態あるいは特別な事象としてきたのは、紛れもない人類自身である。人類は、平和を希求すると言いつつ、それを破り捨てて何かの目的ために戦いを選んできた。それは、平和以上に戦ってでも守るべき価値があるということを意味しているのではないのか。
つまり、人類にとって、或いは国家国民にとって平和が守るべき至上の価値であるのかどうか、はなはだ疑わしいのである。それが、長年にわたって英知を結集して人類が築いてきた筈の歴史が示す真実である。
戦争のない状態、即ち平和は極めて大事で、努めて長く続くことが切に望まれる。しかし、例えば、ひたすら紛争や戦争のない状態を維持せんと欲するがために、「事なかれ主義」に終始し、或いは非暴力・無抵抗主義(白旗主義)を貫いて相手の言いなりになった結果、国家の生存と安全そして主権或いは独立が守れなくともそれを許容することができるのか。その答えは、明らかに「否(ノー)」である。
わが国は、「自存自衛」として戦った先の大戦において、完全な敗北を喫し、有史以来、絶体絶命の国難に直面した。
その結果、国家の生存は根底から脅かされ、主権は蹂躙され、そして国内の治安や秩序は混乱して、国民は極度の不安(不安全と不安心)に晒された。
この敗戦の苦く重い経験と三百万余の尊い同胞の犠牲の上に得られたものは、「国家は、まず何としても厳然と存在し、国土と国民の安寧を確保しなければならない。その基盤(土台)が揺らげば、国家の主権も、法秩序の維持も、経済をはじめとする国民の自由で旺盛な諸活動も、ましてや国民の福祉も全く成り立たない」という厳しい現実であった。平たく言えば、「国家がなくなれば、何もかも御仕舞だ」という深刻な教訓である。
このことは、そのような歴史的事実に至った原因はともかくとしても、近年のパレスチナ問題やイラク戦争及びその後のイラクの惨状を見ても、極めて明らかである。
わが国は、敗戦占領という未曽有の事態に追い込まれた厳しい歴史的体験があり、そこで得られた貴重な国家的教訓を決して忘れてはならない。
つまり、我々には身を賭して守らなければならないものがある。それは、わが国の生存と安全そして主権或いは独立であり、そのために戦う覚悟と戦い抜く強靭な体制が必要である。
しかし、それでもなお、わが国の経済至上(万能)主義者は、平和、即ち一切の摩擦や緊張を避け、紛争或いは戦争のない状態を最優先しなければならないと叫ぶであろう。
現行憲法の平和主義の下で、戦後復興期の一時的政策であった「経済重視、軽武装」の吉田ドクトリンは、その後も惰性的に踏襲されてきた。その結果、平和主義と経済至上(万能)主義は誰もが敢えて否定しない領域であると合点した上で、両主義者はそこに安住し、今日でも、もたれ合いつつその地位を確保しているからだ。
○「政治の時代」に、限られた選択肢と危機管理の不備
政治の時代には、対立や抗争を政治的に解決して、平和を回復し、経済の時代を取り戻すことに最善の努力を傾注しなければならない。また、それが故に、国家のもつ力量が最大限に試されるときでもある。
国家の力量を左右するのは、―近年、頓にソフト・パワーの重要性が強調されているが―基本的に外交、軍事および経済の三つの要素であり、この三本柱を国益に資するよう総合一体的かつ最大限に運用することである。
しかるに、わが国は、長年、経済至上(万能)主義を採ってきた結果、経済(ODAなどの小切手外交)以外に有効な外交手段を持たない。その経済も、2010年、全体の規模において中国に追い抜かれて世界第3位に転落し、特に中国に対しては効力を失っている。また、いかに経済力が大きくても、軍事の代替機能を果たすことはできない。
一方、強力な外交を推進するには、確かな軍事力の裏付けが必要である。しかし、自衛隊は、「非核で、他国に脅威を与えない自衛のための必要最小限の防衛力」しか保有していない。ハードとソフトの両面から厳しく規制された「奇形の軍隊」に仕立てあげられた自衛隊に、大きな役割を期待することはできない。
つまり、わが国の国力は、下図の通り、経済力はあるが、それに見合った外交力および軍事力が伴わない歪な構造となっており、総合すれば極めて弱体である。

中国を相手とする政治の時代には、外交、軍事および経済を中心に、様々な選択肢を組み合わせ、慎重かつ大胆に行使しなければならない。しかし、「均衡ある国力」を造成してこなかったわが国は、国家として機能不全の重い付けを負わされ、主体的に身動きすることができないのである。
そのため、特に外交と軍事の分野は、米国との同盟に大きく依存する日米安保中心主義をとってきた。実は、そのことが不均衡な国力を生んだ大きな要因でもあるのだが、今日、中国などの飛躍的台頭によってアメリカの地位とパワーが相対的に低下している現実に直面している。
しかるに、戦後体制を引き摺って閉塞状況に陥ってしまったわが国は、大胆な国家の軌道修正を図るきっかけを見出せないまま、低迷の一途をたどっているのである。
一方、政治の時代には、危機発生の可能性が高まり、危機管理が重要な課題となる。
例えば、中国による南シナ海の島嶼等の略取介入を見ると、@自国領であるとの領有宣言を行い、A海洋調査船や漁業監視船などによる既成事実化の行動を積み重ね、B漁民等を上陸させた後、C軍事力を直接行使して、D実効支配を確立するという手順で、段階的に占領支配を拡大するパターンを採っている。
わが国の尖閣諸島に対する中国の行動は、既成事実化の行動を積み重ねる第2段階に入っており、間もなく漁民等による上陸の第3段階にエスカレートしよう。そうすれば、明らかに重大な危機事態である。
万が一、危機事態が発生した場合には、国益を基準に、多角的な選択肢を駆使して危機が武力衝突や戦争に拡大することを抑止するとともに、危機を努めて低いレベルに抑制しつつ、早期に問題を解決するよう、毅然とした行動を取らなければならない。
2010年9月7日、中国漁船が領海を侵犯し、海上保安庁の巡視船の停船勧告を無視して逃走する際、巡視船に衝突を繰り返したため、同船長が公務執行妨害で逮捕・勾留されるという「中国漁船衝突事件」が発生した。
中国政府は、即座に日本との閣僚級の往来停止、中国本土にいたフジタ社員4人をスパイ容疑で身柄拘束、レアアースの日本への輸出停止、漁業監視船等によるパトロールの常態化など複数の報復措置(多角的な選択肢)を繰り出した。これに屈したかのように、民主党政権は、25日、中国人船長を処分保留のまま釈放した。
もともと、わが国の有事法制には、平時と有事の概念はあるが、その中間の危機事態あるいは危機管理(Crisis Management)の概念が希薄で、その体制も不十分である。
このような不備を補うため、安全保障会議設置法(平成18年12月最終改正)が制定され、内閣に、安全保障会議を置いて国防に関する重要事項及び重大緊急事態への対処に関する重要事項を審議するようになっている。
「中国漁船衝突事件」の一連の事態は、その設置法が定める重大緊急事態に当たるので、速やかに安全保障会議を招集して対処の基本方針を確認すべきところであった。
本事件直後、政府は、数次の安全保障会議を開催したが、議題は「東ティモール国際平和協力業務の実施について」の報告等であって、本事件への対応については審議していないとの記者発表を行っている。
もし、「中国漁船衝突事件」が議題にすら上がらなかったということが事実であるとすれば、わが国政府には、危機の発生に際して、その事態認識やどのような対応行動をとるかの明確な基準そして対処の基本方針がなく、時の政権によって対処のあり方がまちまちであるとの問題点が指摘されよう。
一方、うがった見方をすれば、本事件を議題にした安全保障会議を開催したが、ひたすら中国の顔色をうかがって、その事実を敢て伏せたとも考えられる。
いずれにしても、当時の菅内閣は、国益を完全に度外視して、ただ「事なかれ主義」、言い換えれば「平和主義」に終始した。日本の将来を危うくする、極めて拙悪な対応であったと断ぜざるを得ない。
このように、わが国の病根は、国家の死活的利益を左右する政治の世界にまで現われており、社会全体、そして国民の心の中にまで広く深く蔓延しているのではと、憂慮されてならないのである。
○日本のあり方を根本から立て直そう
わが国は、60年余にわたる戦後体制の継続とその拘束によって、21世紀の激動・激変する内外情勢に適応できない深刻な閉塞状況に陥っている。
その元凶は、先の大戦における敗戦占領下、日本の「非武装(軍事)化・弱体化」を基本政策とする占領軍によって起草され、押し付けられた現行憲法にあるのは間違いなかろう。
平和主義も、経済至上(万能)主義も、「自分の国は自分の力で守る」最低限の防衛努力を怠避する日米安保中心主義も、本を正せば、現行憲法を中心とするわが国の戦後体制によって歪められてきた日本人の精神性に係わる問題となろう。
その根本的解決には、何よりも、時代にそぐわない、とっくに賞味期限切れになった現行憲法を一から見直す必要がある。
そして、日本および日本人が主体性を取り戻し、自立した志の下、自らの手によって国家のあり方(国家像)を確立して、それに基づいた新たな憲法を制定することから創めなければならないのではなかろうか。
|