「イスラム国」の日本人殺害脅迫について

政策提言委員  矢野義昭

 事件の経緯から見れば、昨年11月の後藤氏の奥様へのメールで身代金の要求があって以降、おそらく警察に知らされ、政府も承知して、外務省などが現地の関係機関などと連絡をとりつつ、内密に交渉を続けてきたものと思われる。しかし、その間日本政府もご家族も身代金を支払うことを拒否し、交渉が決裂したものと推測される。交渉決裂を踏まえ、イスラム国側は、国民に直接訴えるビデオを作成し、最後の賭けに出たのであろう。72時間という異例の時間制限を決めていることが、彼らの焦りを示唆している。またビデオによる要求のタイミングとして、安倍首相の、計2億ドルの人道支援声明を口実にし、しかも同額の身代金を要求している。

 このようにして、安倍首相の声明が人質の命を危険に曝したとの因果関係を世論に印象付け、日本世論の非難の矛先を政府に向けさせて国民と政府首脳の間に溝を造り、日本国民の世論の力で政府の方針を変えさせ、身代金支払いを実現させようと目論んだと思われる。計算されつくした巧みな情報戦である。このような情報戦の手法は、チェチェン紛争の時代に、イスラム過激派テロリストにより採られた。彼らの指導者が、イスラム国の軍事面の最高指導者として迎えられている。なお、斬首という残忍な処刑場面のビデオを流し、恐怖を拡散するという手法もチェチェンでは採られた。イスラム国も同様の手法を使っている。そうならないことを願うが、今回も残酷な結末に至る可能性があることを、日本国民、日本政府は覚悟しておかねばならないだろう。しかし、後藤氏も自ら言い遺したように、二人の被害者も入国禁止の指示や周辺の忠告を振り切ってシリアに入った以上、それなりの覚悟もあったであろう。悲劇的な結末は望まないが、自己責任の面もあることは否めない。

 イスラム国は、敢えて否定しているが、経済的動機が今回の事件の背景にあることは間違いない。イスラム国の主な収入源は、支配地域内の世界有数の油田から出る原油にある。そのほかに彼らは、誘拐、強奪などのテロ・ビジネスと、携帯電話、タバコ、パスポートなどの偽造品の密売を主な資金源としているが、原油収入は大きい。彼らの原油は、精油業者に市場より安い1バーレル60ドルで引き取られる。密輸業者は、イスラム国の支配地域から外に石油を運び出す際に、検問所で5千ドルのわいろを支払わねばならない。イスラム国が支配する以前のイラクの密売ルートを利用するだけでも、イスラム国は1日当たり100万ドルの収入を得ることができると見積もられていた。しかし、今では原油安により、彼らのバーレル当たり60ドルの価格では、買い手はつかず、彼らの収入源は枯渇しているに違いない。その上、米軍などは石油精製施設、油田、貯蔵所、輸送用トラックなどを空爆の重点目標としてきた。そのため、イスラム国は大幅に資金源を削がれているはずである。そこで、日本人を誘拐し身代金を得ることを目論んだと見られる。空爆が激しさを増し、原油安になった時期と後藤氏の誘拐の時期は連鎖している。後藤氏は騙されて誘拐されたのかもしれない。

 今回の原油安はサウジによる減産拒否に端を発しているが、その背景には、イスラム国がサウジ国境に迫り、サウジの王政に脅威が及んできたことがある。これまでサウジは、シーア派のイランに対抗するため、暗にイスラム国などのスンニー過激派を資金面などで支援してきた。特に、サウジはワッハーブ派のイスラム原理主義の国であり、宗教的にはイスラム国と同根である。しかし、イスラム国が身近に迫るに及び、王政存続への危機を感じ、サウジ指導者は、イスラム国の脅威を封じるとともに、イランの影響力も低下させることを狙い、自らの収入減も省みず、減産を拒否し、原油安を誘発させたと思われる。それに、ロシアへの経済制裁強化も目論む米国の思惑が一致し、原油安が誘導されたのであろう。

 安倍政権は、イスラム国の期待に反し、頑強に身代金支払いを拒否し続けたと見られる。今回も身代金は支払わないであろう。その決断は正しい。身代金を支払うことは、テロに屈することである。せっかく効力を発揮している資金面での締め付けが無に帰し、イスラム国のテロが世界にさらに拡散することになる。そうなれば、日本人も世界中の善良な市民も、テロの脅威にさらされることになる。特に、フランスでの一連のテロ事件以降、テロとの戦いへの参画は、イスラム圏も含めた世界各国の合意になっている。その中で、日本だけがテロに屈すれば、日本への信頼感も崩れ、国際社会から孤立することになるであろう。

 日本国内では、集団的自衛権行使についても、いまだに護憲や巻き込まれ論など、冷戦時代そのままの内向きの論理による反対論が根強い。しかし世界は一変している。日本は中国と並び、中東原油に大きく依存している。それにもかかわらず、日本がテロとの戦いに参加せず、他方で中国がテロとの戦いで欧米やイスラム穏健派諸国と協力すれば、これらの諸国は、日本を見限り、中国との関係を重視するようになるであろう。そうなれば、日本は孤立する。テロとの戦いに参加すれば、日本国内でのテロの脅威は高まるかもしれない。しかし、そのリスクよりも、日本が国際社会から孤立する脅威の方がはるかに高い。孤立は日本の国家としての生存すら危うくするであろう。そのような視点から、日本は武力行使も含めて、テロとの戦いに参加すべきであろう。

 いまテロとの戦いの中心になっている欧米諸国は、いずれも財政難に直面し、国防費の大幅削減を余儀なくされている。その中で各国は、苦しいテロとの戦いを続けている。他方で、日本国民の保有する富は政府の財政赤字を補填して余りがあり、日本は依然として豊かな国である。また、経済を維持するために、中東原油に大きく依存し、中東地域の安定により最も利益を得ている国でもある。その日本が、資金提供のみで傍観者に止まるとすれば、日本は欧米諸国の信頼感を失うであろう。

 また、日本は中東地域を植民地にしたこともなく、武力行使に参加したこともない、しかも非白人の非キリスト教国でもある。そのため、イスラム圏の人々は親日的で、日本への信頼は篤い。このような日本のこれまで築いてきた中東での地位や信頼を、テロとの戦いに参加することで放棄すべきではないとの見解もある。しかし、イスラム過激派のテロは、イスラム諸国とその国民にとっても、すでに深刻な脅威になっている。したがって、日本が、単に資金援助のみではなく、武力行使を含めた積極的な役割を中東地域の安定化のために果たしても、イスラム諸国を敵に回すどころか、彼らの信頼をむしろ高めることになるであろう。

 以上から、日本は、単にテロに屈することなく身代金を支払わないというに止まらず、今後は、武力行使を含めた、より積極的な貢献を中東の安定化のために果たすべきであると言えよう。




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