自衛隊は強いのか

顧問・元陸上幕僚長  冨澤 暉

 「本当のところ、自衛隊は強いのか」そんな質問を受けることがよくある。かつて自衛隊で精強部隊育成に努めてきた身からすれば、「もちろん強いのです」と言いたいところだが、その答えはそれほど簡単ではない。なぜなら、「強さ」を決定する基準は多岐にわたっているからである。帝國陸海軍と比較しての話か、米軍と比較してか、あるいは近隣諸国軍との比較か、隊員個々の強さか、大部隊としての強さなのか、比較対象、戦闘環境によって「強さ」の基準は違ってくる。また、戦闘機、護衛艦、戦車など装備の物理的能力なのか、武器弾薬の補給や予備兵力など人事・後方の持続力を含めているのか、あるいは精神的な側面も含めた訓練練度のことなのか、はたまた有事法制や国民による支援も含めた総力戦能力のことなのか、「強さ」について、それぞれを明確に区分して聞く人などまずいない。
 しかし「貴方のいう強さの意味がよくわからないので、お答えできません」と言うわけにもいかず、困ってしまう。そこで、「艦艇の総トン数にして海上自衛隊は世界第5〜7位の海軍、作戦機の機数でいうと、航空自衛隊は世界で20位ぐらいの空軍、兵員の総数からして陸上自衛隊は世界で30位前後の陸軍、というのが静的・客観的な評価基準です。真の実力はその基準よりも上とも下ともいえるわけで、想定する戦いの場によって変わってきます」と答えることにしている。
 もちろん、こうした回答では満足できず、自らの考える「強さ」の意味を解説し、さらに議論を持ち掛けてくる人もいないではないが、多くの場合、ここで質問を変えてくる。質問は変わっても、自衛隊の力を疑うような内容であることに変わりはない。最も多い第二の問いは「自衛隊員は実戦で使えるのか。生命をかけてやる気があるのか」というものである。
 自衛隊員は入隊時に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」と宣誓している。現実に、隊員たちは極めて厳しい訓練に参加しており、安全管理に徹しつつも残念ながら、自衛隊発足時から60年間に1500人(年平均25人)を超える訓練死者(殉職者)を出している。この殉職者方は死ぬつもりはなかった筈だが、この訓練は極めて危険な厳しいものだということを承知の上でこれに臨み、亡くなった方々である。
 帝國陸海軍は当初訓練死者を戦死者と認めなかったが、第2次大戦後半以降国内における訓練死者をも靖国神社に合祀するようになった。つまり、訓練殉職者は戦死者なのである。
 ところで最近の安全保障法制の変更や新ガイドラインの改訂に関連して、これらの質問とは真逆に「これまで戦死者を出さなかった自衛隊から、一人でも犠牲者を出してはいけない」という意見がマスコミ上を賑わしている。
 私ども自衛隊員であった者たちにいわせると、これまた誤解に満ちた困った意見である。
 確かにこれまで自衛隊は、国内でもよくあるような事故死の例を除き、海外で一人の犠牲者をも出していない。その間、自衛隊が進出した地域の付近で、何人かの日本人ボランティア・ジャーナリスト・警察官・外交官方がお気の毒にも亡くなっている。その海外派遣総員数と殉職者の比率を比較するならば、自衛隊が如何に訓練精到な組織であるかがお分かりかと思う。
 これまでの自衛隊海外派遣において一人の戦死者も出さなかったことは、無論、幸運に恵まれたということもあるが、何よりも先に述べたような「平時からの覚悟とこれに基づく命がけの訓練」のお陰だということを知って欲しい。だから自衛隊は、国民の総意を代表する最高指揮官たる内閣総理大臣の出動命令が出た時には「身の危険を顧みず」その命令に従うのである。
 しかし、平時にそれだけのことをしている自衛隊だから戦時にも力を発揮するかというと、必ずしもそうとは言い切れない。
 第一に、「日頃訓練していないことは実行できない」ということである。今まで訓練したこともないような任務を急に与えられても隊員は戸惑うばかりだ。彼らが実行動に臨むに当たって心の支えとするものは、その任務遂行に関わる厳しい命がけの訓練だからである。
 日頃訓練していない任務を自衛隊に与える時には、その訓練のための「時間」と「人員」と「場所」と「予算」を新たに与えなければならない。国民と政治家にはこれを理解して欲しい。自衛隊は困った時に何でもやってくれる「打ち出の小槌」ではないのである。
 だから、自衛隊の指揮官たちは「現在の訓練状況でこれだけのことは出来るが、それ以上のことは出来ない」とはっきり国民・政治家方に説明申し上げなければならないし、逆に国民・政治家方には自衛隊の日頃の訓練状況を知って欲しいのである。
 第二に「訓練しても実行できないことはある」ということである。例えば、「敵に監禁されている邦人(要人)を無傷で救出する」などということは、いくら訓練しても出来ないことである。イタリアの山荘に監禁されたムッソリーニを救い出したドイツ親衛隊のスコルツェニー中佐の例や、在ペルー日本大使公邸人質事件等が思い出されるが、両例とも、救出側に充分な情報があったことと、監禁側の対応が余りにもお粗末であったということを忘れてはいけない。さらに後者においては、日本人に犠牲者は出なかったもののペルー軍人二人とペルー最高裁判事が亡くなったことを多くの日本人が忘れている。こうした事態では監禁側の人物に工作し彼らに寝返りをして貰うしかないのだが、それを仕掛ける諜報機関は自衛隊にはない。ないものねだりは出来ないということである。
 それでも「自衛隊は強いのか」という質問をする人に、私は「失礼ですが、実戦が起きた時、あなた御自身は何をなさっているのでしょうか」と逆質問することにしている。
 最近の自衛隊OBで実戦体験を持つ者は少なくなった。しかし災害派遣の経験を持つ者は大勢いる。私もその一人だが、その体験からいっても、隊員たちは災害派遣活動では、日頃の訓練時よりもさらに士気高く、自発的に実力を発揮することが多い。まさに自らの危険を顧みず、勇気ある行動をとる。災害地には、本当に困っている国民がいて、その一人ひとりが自らも懸命に働きながら、なお自衛隊を頼りにしてくれる。そして、そうした人々と物心両面にわたる交流が始まり親密にもなる。マスコミもたくさんやって来て自分たちの姿を全国に知らせてくれるし、自衛隊員宛てに激励の言葉や慰問品も届く。こういう場面で、さぼったり逃げたりする隊員はいないのである。戦時もたぶん同じことになるのだと思う。国民が本当に困り、自衛隊を頼りにし、自衛隊をそれぞれの立場で応援してくれていると実感したとき、隊員たちは命がけで戦うに違いない。「自衛隊は強いのか」という質問は、実は「国民は強いのか」と言い換えて、国民一人一人が自問自答すべきものなのではないか、私は、そう考えている。その意味で徴兵制の有無に拘わらず「国民の国防義務」を明記した多くの諸外国憲法は参考になると思う。
 さて、そうしたことをようやくご理解頂いた方でも「我が国防衛のためならそれは仕方ないが、外地に出かけてまで、危険なことをする必要はないだろう」とさらに言われるかもしれない。実は、これまでに日本に蔓延っていた「一国平和主義」とは、まさにこの考え方であり、極めて利己的なものである。私どもは「世界の平和」があってはじめて「日本の平和」があることを認識し、「日本の平和」のためにもまず、「世界の平和」に貢献することを目指すべきではないだろうか。
 日本と同様に第二次大戦のトラウマを持つドイツは1990年代以降各種の多国籍軍やPKOに参加しており、犠牲者の数もボスニアでの19人、コソボでの27人などと増大させている。アフガンでの多国籍軍ISAFでは後方兵站部隊派遣に徹したにも拘わらず55名の戦死者を出して大きな国内問題となった。しかし、平和主義者として高名なメルケル首相は極めて危険なアフリカ・マリのPKO部隊を、断固として撤退させないでいるということである。「世界の平和」を守ることは、世界の各国が危険を承知の上で協力し合ってはじめて出来るものなのである。
 2015年春に与党協議でまとめられた「安保法制の概要」や日米両国で合意された「新防衛協力指針(ガイドライン)」は、各種事態対処の法的根拠が本来異なるにもかかわらず、それらを曖昧な「集団的自衛権解釈」で一括りしているところが説明を難しくしている。その点での不満は残るものの、全体として私は、よくぞここまで「積極的平和主義」を具現化してきたものだ、と高く評価している。今後はこれを第一歩として、さらに集団安全保障やグレーゾーンにおける武力行使の問題を解きほぐし解決して行き、世界の平和に貢献し、それによって日本の平和、すなわち日本人の心の平和を確保できるようにして欲しいと願うものである。   (了)


(2015年5月25日付 『JB press』より転載)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43815


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