シナ、韓国に対する日本の貢献というが

元法務大臣   長勢 甚遠

 政府はことあるごとにODAなどの日本の支援が開発途上国で大いに感謝されているとし、平和国家日本の役割として国際社会に貢献すると内外に強調している。一方国連などは経済大国である日本の対外援助の拡大を強要し続けている。国際協力機構(JICA)はODAの成果を得意気に宣伝するとともに対外援助の内容が他の先進国より劣っているなどとしてその改善、増額を要求してとどまるところがない。国会でも防衛費の抑制の議論はされても対外援助削減の議論はまずない。外国にやるカネがあるのなら国民生活に回してもらいたいということはみんな思っていることであろうが大きな声となることはない。
 それはそれでいろんな事情があることでありやむを得ないことであるが、ODAなどの対外援助とは何なのかを冷静に考えておく必要があるのではなかろうか。国際貢献といえば聞こえはいいし、国民も気持ちがいい。しかしその本質は単なる我が国に対するゆすり、ねだりさらには恐喝の安易な受容に過ぎないのではないか。戦争で被害を与えた国に援助するのは当然という意見は国内にもあるが、そうであれば相手国には当然の権利で日本に感謝するいわれなどないことになる。こんなことだとすれば、相手国が日本に感謝しているとか、成果が上がっているとかいうのは日本が勝手に思っている独りよがりの自己満足に過ぎないということになる。
 欧米諸国の対外援助は日本のものとは異なり経済侵略の一手段として行われている観がある。近年の中共(中華人民共和国)の膨大な対外支援は経済・軍事侵略の方策として行われていることは明白である。外交は複雑な要因が絡むから軽々にこれからの対外援助のあり方を論ずることはできないが、いい子ぶってあるいは敗戦国の責任だなどと思って、未来にわたって日本がたかられ続けることには一考を要するのではなかろうか。
 新聞で、今年6月に北京で開催された国際会議での中共の王毅外相(元駐日中国大使)の発言を読んで、改めてこんな思いを深くした。
 王毅外相の日中関係改善の具体策は何かという質問に対する答えは「中国の発展と台頭を、日本が心から受け入れ、歓迎できるかどうかだ」というものだった。また、シナが世界第二位の経済大国に成長したことについて「中国の復興は、過去の歴史のあるべき状態に戻っただけだ」と述べたという。シナにとって日本など対等の相手ではなく、単なる朝貢国にすぎないと考えているということである。そんなことはシナ何千年の歴史を見れば明らかではないかというのがシナの歴史認識であるということだ。
 シナの経済成長には日本の何兆円にも上るODAが原動力となったと日本では考えられているが、シナにはそんな評価は全くないのである。シナでは日本の援助について語られることはなかったという。日本の援助で行われた事業もそれには触れず自らの予算で行われているように装われていたという。それどころか昭和59年に日本の164億円の無償資金協力で開設した北京の「中日友好病院」の名称について、今年2月には「友好」を削り「中日病院」に変えたという。日本に感謝する気持ちを国民が持つことの無いようにするためである。
 シナと歴史認識を同じくする韓国でも、奇跡といわれた経済成長は日本では日韓国交正常化の際の経済協力協定、その後のODAに負うものと考えているが、日本の援助のことは誰も知らないでいるという。日本の援助など国民に知らされていないのである。
 そういえば、ギリシャがEUへの借款返済を拒否していることが問題になっているが、ギリシャにとってフランス、ドイツの指示を受けることなど選択肢にはないのであろう。なにせギリシャの時代にはフランス、ドイツはシナで言えば東夷、南蛮の蛮人が棲む地であったのだから。ギリシャはそんなものに感謝したりお願いしたりなどあり得ないと思っているのではなかろうか。シナ、韓国も日本に対して同じようなことであろう。
 こんなことは我々には恩知らずな話で不愉快なことに違いない。しかし、これが世界の常識というものなのである。日本の復興はアメリカのお蔭といまだに有難がっている日本は他国から見れば不思議で信じられない国であることだろう。我々世代は子供のころの思い出としてアメリカからもらった脱脂粉乳に対する感謝を語るが、そんな日本人は哀れな劣等民族に見えることだろう。
 日本は困った時には助け合い、助けられた時には感謝するという価値観を培ってきた民族であった。敗戦によりそういう価値観は世界に通用しない間違ったものとして否定されてきたのであり、そういう価値観をもってシナ、韓国を非難することは許されない。そういうことも分らずにカネを与えた方が馬鹿なお人よしといわれるだけだということである。昨今のシナ、韓国の激しい反日姿勢に対してあれだけ援助したのになぜだろうと疑問を持つ向きもあるが、もともとそんな人間的感情など日本人以外には存在していないと考えれば納得できる。
 日本の国際社会に対する役割、貢献というものも他国においては日本が考えるものではないことをシナ、韓国の事例から気づかなければならないことではなかろうか。その上での国際協力をどうしていくかがこれからの問題である。
 何とも気が滅入る。シナ、韓国との協力関係拡大を声高に発言されている方々はどんなことを思っておられるのであろうか。

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