有事の際、海外の邦人救出はしなくて本当にいいのか


政策提言委員・元航空支援集団司令官  織田 邦男

orita 時事通信が3月6日〜9日に実施した世論調査によると、海外での邦人救出に自衛隊を活用することに「賛成」の人が34.6%に対し、「反対」は51.1%と慎重意見が上回ったという。
 現在の安全保障法制の与党協議では、受け入れ国の同意を前提に、海外で危機に陥った邦人の救出を自衛隊が行えるようにする法整備を検討している。だが、自民党支持層でも「賛成」が44.1%で「反対」が42.0%、公明党の支持層に至っては反対が57.7%だという。
 「慎重意見」の人達には「危機に陥った邦人を救出しなくていいのか」「救出するなら、どうやって救出するつもりなのか」と聞いてみたい気がする。
 戦後、安全保障を米国に委ね、米国によって「配給された自由」を謳歌してきた結果、国家の安全保障のみならず、自分の安全さえも他人事の様にとらえるようになったのだろうか。在外邦人救出は他人事ではない。明日にでも自分の身に降りかかりうる事案である。
 慎重派の人達は、実態を正確に把握していないまま、「自衛隊が戦火に巻き込まれる」といったメディアのネガティブキャンペーンによって、ただ漫然とした不安感を抱いているだけなのかもしれない。ならば、国民に正確な知識を与えない政府、そしてメディアの責任である。

 では、現状はどうなっているのか。自衛隊法第84条の3に「在外邦人等の輸送」が規定されている。

「防衛大臣は、外務大臣から外国における災害、騒乱その他の緊急事態に際して生命又は身体の保護を要する邦人の輸送の依頼があつた場合において、当該輸送において予想される危険及びこれを避けるための方策について外務大臣と協議し、当該輸送を安全に実施することができると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる。(以下略)」

 この条文からも分かるように、自衛隊は「邦人輸送」はできても「邦人救出」はできない。しかも「輸送を安全に実施」できる見通しがなければ自衛隊は派遣できない。国際常識からすれば非常に奇妙な規定である。安全が確保されないからこそ自衛隊が行くべきなのであり、安全が確保されているなら民間航空会社に頼めばいい。
 現状では、安全が確保されなければ、日本政府は在外邦人を救出する手段を持たない。外国軍隊に日本人も助けてくださいとお願いするしかない。外国軍隊は当然自国民を優先して救出するはずだ。余席があれば日本人も助けてくれるかも知れない。だが「満席です、ごめんなさい」と切り捨てられることも十分あり得る。
 国民の生命を守るのは国家の責務である。邦人が海外で苦境に陥った場合、最後の手段として軍隊を派遣してまで救出しようとするのは諸外国では常識である。日本の現状は言わば「棄民状態」なのだ。

 過去、次のような事案が実際に生起している。

 1985年のイラン・イラク戦争時、イラン政府は上空を飛行する航空機は撃墜すると宣言した。テヘランには邦人216人が残され一刻も早い脱出が求められた。日本政府は民間航空会社に臨時便の要請をしたが、労働組合により拒否された。幸いにも、親日のトルコ政府がトルコ航空を派遣し、邦人216名全員を救出してくれた。1890年、トルコのエルトゥールル号が和歌山沖で遭難した時、献身的な救助活動をしてくれた日本人への恩返しというトルコ国民の善意に助けられたのだ。
 1997年、カンボジアにおいて軍が衝突、銃撃戦になった。この時は440人の邦人がタイ軍用機による救出されている。
 1998年、インドネシアで暴動が発生。5000人近い邦人は、日本政府がチャーターした民間航空機等により国外に退避できた。
 1998年、アフリカのエリトリアで発生したエチオピアとの国境紛争の際、3人の日本人が現地に残された。政府はチャーター便などが派遣できず、アメリカ軍機に搭乗させてもらって国外に避難した。
 1999 年、東チモール暴動の際、邦人23 人が政府チャーター便でインドネシアに避難している。

 諸外国の場合はどうだろう。

 1976年、テロリストにハイジャックされたイスラエル人105名を救出するため、イスラエルはエンテベ空港に軍を投入。銃撃の末、人質を救出している。
 1979年、在イラン米国大使館人質事件において、米軍は人質救出のため軍隊を投入した。だが作戦は失敗に終り、結果的には人質は救出できなかった。軍事行動を非難された米国政府は「米国民の救出を目的とした自衛権行使」と主張している。
 1997年、アルバニアにおいて治安が急速に悪化。ドイツ政府は空軍を派遣し、銃撃戦の状況下でドイツ国民を救出した。
 2011年、リビアで内乱が勃発。英国は早々に空軍機をトリポリ空港に強行着陸させ、在リビア英国人を全員救出した。中国は自国民退避のため、海軍フリゲート艦を派遣。韓国は、大韓航空機、チャーター船、海軍駆逐艦をリビアに急派した。この時、在留日本人23名(2月25日時点)はスペインの軍用機や米国のチャーター船に乗せてもらって退避した。

 このように、諸外国は人数の多寡に係わらず、海外で苦境に陥った自国民を救うためには、チャーター船、民航機は勿論の事、最後の手段である軍隊を派遣してでも国民を守るという国家の責務を果たそうとする。これが国際常識である。

 2013年、アルジェリア南東部イナメナスのガス田施設でプラント建設大手、日揮(横浜市)の日本人駐在員17人を含む多数の外国人がイスラム武装勢力に拉致され、結果的には日本人10人の犠牲者が出た。また今年の新年早々、イスラム国に人質になった湯川氏、後藤氏の両名が殺害されたことは記憶に新しい。北朝鮮では未だに多くの拉致被害者が生存しているといわれる。

 こういった海外での人質事件にまで、自衛隊を派遣すべきと筆者は主張しているわけではない。情報能力を含め、今の自衛隊にその能力はない。自衛隊はスーパーマンではない。世界中、どこにでも駆けつけて、危機に陥った邦人を救えるわけではないのだ。先ずは、米国のCIA、英国のMI6といった同様の情報機関を創設し、情報収集能力を高めるのが先決である。
 邦人救出も様々な状況が考えられる。自衛隊の能力を超える任務が浮上してきたら、プロである自衛官が「そんな任務はできません」と大臣に直接意見具申すればいい。今回の防衛省設置法12条改正でそれは可能になる。だが、自衛隊の能力で十分可能な邦人救出まで禁じているのが現行法制なのだ。

 受け入れ国の同意があれば、少なくとも、上記の日本人が係わった事案については、全て自衛隊機による邦人救出は可能であったと考える。筆者は航空自衛隊の輸送機や政府専用機を預かる部隊指揮官を経験したので明言できる。
 幸いにも、上記事案については事なきを得た。だが、その度に日本だけ救援機が来てくれなかったと在外邦人から抗議と不満の声を聞いた。現状の「棄民状態」を放置し、事なかれ主義にどっぷりと浸かりながら、事が起きた場合、何故政府は我々を見捨てるのかと嘆く。政治の怠慢であるが、国民にも声を上げない責任がある。

 現行の「邦人輸送」法案審議の際、非武装中立という空想的平和主義を標榜してきた社会党が連立政権の一角をなしていた。当初、社会党は「自衛隊の海外派兵に道を開く」として反対する姿勢をとっていた。その後、連立政権維持の立場から妥協案として「安全が確保されない場合は邦人輸送を実施しない」と主張し、「邦人救出」は「邦人輸送」へと骨抜きにされた経緯がある。
 「武力行使目的でなくても派遣された自衛隊が戦火に巻き込まれるおそれがある」「居留民保護の美名による軍隊進出を許してはいけない。戦前の日本軍の海外出兵の大きな口実の一つが、居留民保護であった」と主張し、安全が確保されなければ自衛隊は派遣しないと決めた。だが、この主張は全くの時代錯誤であり、未だに化石のような発想が良識の府を支配していることに愕然としたことを覚えている。
 自衛隊は旧軍とは違いシビリアンコントロールが徹底している。政府の決定なくして自衛隊は全く動けない制度になっている。危険状況はケース・バイ・ケースであり、その都度、政府が状況を判断し自衛隊派遣の是非を決めればいい。
 自衛官は適切な命令さえあれば、日本人を救うためには身の危険を顧みず行動する。だが、法整備が整っていなければ行動はできない。それはシビリアンコントロールを遵守するからだ。

 漠然とした不安に駆られて「自衛隊が在外邦人救出に海外に行くのは反対」と主張する国民がいても不思議ではない。だが国会議員がそれでは困る。「では、どうするか」という代替案を出さねばならない。もし代替案がなければ、「自衛隊は派遣しない。だから最悪の場合、救えなくともやむを得ない」と「下の句」まではっきり言わねば、あまりにも無責任だ。
 最近の国会審議をみても、「上の句」は主張するが「下の句」を避けようとする傾向がある。「下の句」は耳に痛い。だからと言って「下の句」を言わないのはポピュリズムの極致であり、当事者意識が無さすぎる。
 「公務員削減」を主張するが「だからサービスは低下してもいい」との「下の句」は言わない。「年金は納めない」と豪語する人がいる。だが「老後の面倒は自己責任で」という「下の句」は決して言わない。「米軍基地反対」と叫ぶ人が「だから防衛費増大を」と云うのを聞いたことがない。学生時代に成田闘争に参加した国会議員が、何の恥じらいもなく成田空港から外遊するのも釈然としない思いだ。「下の句」を追及しない国民にも責任はある。
 安全保障の議論は「代替案」と「下の句」を提示してこそ実りある議論になる。これから安全保障法制の審議が始まる予定だ。反対する政党は是非、「代替案」と「下の句」を示すべきだ。

 誰も考えないことを考える、考えたくないことを考えるというのが安全保障の基本である。次もまた「幸運に期待」するというのは政策とはいえない。
 事態が発生してからでは遅い。ブザマな慌て振りを世界に晒すことのないよう、イマジネーションを働かせ、国民の命と暮らしを守れる法整備をしておかねばならない。そして国民が漫然とした不安に駆られることのないよう、政府はしっかりと説明しなければならない。こういうことを世論調査結果が教えてくれている。


2015年3月18日付『JBpress』より転載

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