澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -15-
人権派弁護士弾圧の引金になったと思われる「慶安事件」
政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所教授 澁谷 司

 今年7月1日、中国では新しい「国家安全法」が施行された。ほぼ期を同じくして、200人とも300人ともいわれる人権派弁護士が当局に逮捕・拘束されたのである。
 彼らは、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波(現在、服役中。「08憲章」起草。同憲章には、憲法改正・三権分立・民主的な立法・司法の独立など19項目を謳っている)などとは違い、必ずしも急激な社会変革を目指す人々ではない。あくまでも、庶民の権利拡大を目指すグループである。それにもかかわらず、習近平政権は、社会的騒乱を引き起こしたとして人権派弁護士を弾圧している。
 その引金になったのは、おそらく「慶安事件」だろう。すでに旧聞に属するが、今年5月2日、黒竜江省綏化市慶安県(中国にはしばしば市の中に県が存在する)の慶安駅待合室で、一人の警察官が徐純合(45歳)を家族(81歳の母親 権玉順と3人の幼子)の目の前で射殺した。
 警察による徐純合殺害ビデオはネットで公開された。公安側は徐の射殺は、正当な職務遂行であると主張している。だが、ビデオを見る限り、徐は警察官(李楽斌)の持っていた長い警棒を取り上げ、それで抵抗しているにすぎない。
 問題は徐純合が"陳情者"だった点にある。事件当日、徐は遼寧省大連市金州駅行き切符を購入していた。母親 権玉順の話によれば、徐は最終的に北京へ行くつもりだったという(ちなみに、徐の妻 李秀芹は精神病を患っていると言われる)。
 実は、中央をはじめ上級組織への“陳情”は庶民にとって、命がけの最終手段である。イメージとしては、江戸時代の直訴だろうか。“陳情”の成功率は、3%とも0.3%とも言われる(一般に、地方政府は警察・裁判所とグルになっているため)。
 地方の役人としては、もし不正の事実が上級組織に明らかになれば、左遷・免職の処分を受けるだけではなく、場合によっては厳罰に処されるだろう。したがって、役人は何が何でも“陳情”を阻止しようとする。
 徐純合は、慶安県の役人の不正を訴えるため、“陳情”に行く予定だったという。そこで役人は警察を使って、“陳情者”による上級組織への告発を阻止しようとしたのではないだろうか。普通、役人は不正を告発される前に、“陳情者”を故郷へ連れ戻すか精神病院送りにする。最悪の場合、役人は“陳情者”を殺害するだろう。今度の事件はこのケースかもしれない。
 「慶安事件」の発生後まもなく、当局は、20万元(約400万円)の補償金を徐の母親 権玉順に提示した。だが、それに納得できない母親は、弁護士(李仲偉・謝燕益ら)に真相究明の調査を依頼している。
 5月から6月にかけ、慶安県政府に対する抗議運動が起きた。副県長の董国生がネットユーザーによって、年齢・学歴詐称、働いていない妻が公務員として給料を受け取っている事実を暴露された。そのため、董は停職処分となっている。その抗議運動を全面的にバックアップしたのが、北京鋒鋭弁護士事務所だった。他方、多数の弁護士らが署名し、当局に「慶安事件」の再調査を求めていたのである。
 今回、習近平政権は、多くの人権派弁護士を逮捕・拘束したが、その取締まりのターゲットになったのは、北京鋒鋭弁護士事務所である。同事務所の周世鋒主任と有名人権派女性弁護士、王宇らが、一斉に逮捕・拘束された。中国メディアは同事務所がカネで人を雇い、「慶安事件」への抗議運動を扇動したと伝えているが、真偽のほどは定かではない。

 習近平体制は、政権誕生以来「法治」を掲げている。だが実際に習政権が行なっている事は、それに逆行しているのではないか。共産党は先の「慶安事件」に対する真相究明をしないばかりか、人権派弁護士の活動を抑圧し、真相を闇に葬ろうとしている。
 最近、北京には7万人もの「おばさん治安員」が治安維持のために配置されているとの驚くべきニュースが流れた。社会の安定を維持するためには、きっと公安だけでは数が足りないのだろう。ひょっとすると、これは共産党政権の末期的症状を如実に示している証ではないだろうか。



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