【講座】

シナ事変への道(下)

政策提言委員・高知大学名誉教授 福地 惇
fukuchiY シナ共産党の謀略的戦争挑発
 さて、蔣介石が釈放されて半年経った昭和12(1937)年6月4日、第1次近衛文麿内閣が登場した。それから一月過ぎた7月7日、北平(北京)郊外盧溝橋で小さな軍事衝突が起きたのである。この小競り合いから、我が軍が華北総攻撃に立ち上がる同月28日までの3週間を振り返ろう。
 8日、我が政府と陸軍中央は、「不拡大・現地解決」の方針を打ち出した。同日、中共中央委員会は「徹底抗日」を全国の新聞社、各軍隊、国民党など各種団体、更に全国の同胞宛に発信した。9日、蒋介石の南京政府は、動員令を発令した。11日、近衛内閣の五相会議は、支那軍の謝罪、将来の保障を求めるための威力顕示の派兵もやむなしとし、陸軍三個師団動員を内定した。しかし支那駐屯軍から特務機関長松井太九郎大佐と秦徳純との間に現地停戦協定が成立した旨の報告が入ったので、軍部は一応盧溝橋事件の解決と認め、内地師団に対する動員下令計画を見合わせる。だが、ちょうどこの時期に、コミンテルンから支那共産党に「日支全面戦争に導け」との指令が出たこをが、今では分っている。
 12日、蒋介石は、広汎な動員令を下令した。15日、シナ共産党は、国共合作宣言を全国に公表した。17日、蒋介石は「対日抗戦準備」「最後の関頭に立向かう」とする応戦声明を発した。ここに、シナ側は長期抗日戦争を表明したと言ってよいだろう。現地停戦協定は時間稼ぎと見る他ない。尚、蔣介石の国民党が「国共合作」を宣言したのは、大分遅れて9月22日である。
 正にこの時期、シナ軍は30個師団(約20万)を北支に集結、うち約8万を北京周辺に配備した。「この日、南京政府は、この事件に関する地域レベルでの決着は一切認めない、東京は南京と交渉しなければならない、ときっぱり日本に通報してきた。現地協定拒否の表明である」(カワカミ『シナ大陸の真実』143頁)。
 我が政府と軍部とは明らかに和平を強く希望していた。しかし、如上の流れはその希望を遮った。更に、シナ側の対日抗戦的応答は、7月25日の廊坊(天津―北平間に所在)、翌26日の広安門の在留邦人襲撃・暴行・虐殺事件であった。事態は険悪化した。日本政府が、北支事変に関し自衛行動をとると声明し、内地三個師団(第5・6・10師団)に北支派遣を下命したのは、27日である。28日、遂に日本軍は、華北総攻撃を開始し、揚子江流域、特に漢口より上流の各地に居留する日本人の引き上げを指令したのである。以上が、盧溝橋事件から3週間の事態推移の“あらまし”である。

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