≪追悼≫
わが師、中條さんとの思い出

理事 石川裕一
 中條高徳氏の逝去の報に接し追悼の言葉を記すことは、若輩の私にとって僭越至極ではあるが、生前のご厚誼、数々のご恩に感謝申し上げるべくこの機会を頂戴し、お許しいただくこととする。
 徒然草第二十九段「静かに思えば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき」とあるように、今となっては、中條さんからの達筆の書状と、数々の著書のみが物理的に残っている次第で、誠に寂しい限りである。しかしながら、私の心の中には中條さんとお話をした数々の思い出とともに、その残影を楽しむがごとく偲んでいるこのごろである。
 人は万人平等、必ず死を迎える。何人たりともこれを避けることは出来ず、その方の死生観人生観を云々することは正に僭越の極みであるが、尊敬してやまぬ中條さんの生き様に思いを馳せ、敢えてここに記してみたい。

戦後の公徳心の低下を嘆く
 中條さんはご承知の通り、陸軍予科士官学校卒業後、陸軍士官学校へ進学。そして、昭和20年の終戦を迎えた陸士60期である。今年は米寿を迎える年であった。戦前、日本のスーパーエリートとして軍人を目指し、その教育の中で公徳心を学び、ノブレスオブリージュ精神を身に着けた中條さんは、大東亜戦争の敗戦は、正にコペルニクス的な価値観の転換を余儀なくされ、実に苦しい時代を過ごした。その後、旧制松本高校へ進学。更に、夏目漱石の弟子で哲学の泰斗として名を馳せ、新生学習院生みの親である新学習院初代院長の安倍能成氏と東京で会ったことが縁で、安倍能成氏の薫陶の下、氏の推挙で学習院大学へ学士入学した。
 私は、中條さんとの会話の中で、安倍能成氏の述べた教育の話を度々伺うことができた。私も安倍先生から初等科教育時代に「正直第一」、「金メッキは剥げる」、「人は一人で仕事は出来ない」、「公のために仕事をするのが人間である」と教わったこともあり、中條さんとの話は大いに盛り上がった。後年、中條さんは常々「日本人の公徳心が低下したということは国力が落ちてきたということである」、「私情を超えて公に身を奉げる。これが出来るのは人間だけである。だが近年は日本で公に身を奉げることが人間として最も貴いことであるという認識が薄れてしまった」と嘆いておられた。これは、陸軍士官学校時代の教育と安倍先生の哲学が合体したことによる思想ではないかと、私は考えた。戦前戦後を通しリベラルと言われた安倍先生がいたからこそ、学習院はGHQを説得して復活を果たすことができた。

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