【特集】知られざる沖縄の過去と現在の実態
おきなわの世替わりと自衛隊
―パスポート OB の体験から―

公益社団法人 沖縄県隊友会名誉顧問 石嶺邦夫
《胎動期》
 1957(昭和 32)年宜野座中学校。授業を終え明日の授業の教材準備を済ませ、一息入れているところへ「石嶺先生、お客さんですよ」と事務員の声。私は久しぶりに会うその客人に「先生、一年半ぶりですよ、どうなさいました?」と言った。その客人とは、琉球政府文教局学校指導主導の永山政三郎氏(旧陸軍士官学校 54期)であった。応接室へ案内し着席するや否や「石嶺君、僕は自衛隊に転職したんだ」と言うのである。「エッ、自衛隊ってなんですか?」「昔の軍隊だよ」と興味深い会話が続いた後、先生からいきなり「石嶺君、君も自衛隊に入らないか?」と言われた。国民学校の頃から軍人に憧れていた軍国少年だった私は二つ返事で OKした。この出会いが、私の人生の自衛隊と関わるターニングポイントとなったのである。
 当時米国の占領下にあった沖縄から、私は早速、旅行用パスポートを携帯し渡日、鹿児島にある永山家に身を置いた。そして、自衛隊鹿児島地方連絡部で自衛官試験を受験、入隊が決まったのである。宮崎県都城市新隊員教育隊入隊時には、永山夫人(前述の永山第 1 大隊副大隊長夫人・名護教員訓練学校卒業時の教育実習指導教官)が父兄代理として同行して下さった。
 その年の 9 月、第 8 混成団第 12 普通科連隊に配属された時、永山先生は第 1 大隊副大隊長の職にあった。私が第 12 普通科連隊在職中に薫陶を受けた連隊長の益田兼利 1 佐と大隊長の馬郡芳郎 3 佐との出会いが、後の隊友会活動の大きな糧となった。余談だが、益田氏は東部方面総監部在任中、三島由紀夫事件に遭遇した方であった。退職後も数々の激励の手紙を頂いた。
 そして私は、旅行用パスポートの有効期限等の問題もあり 3 年間の自衛隊勤務の後除隊。鹿児島港から出航する船の甲板から眺める桜島に別れを告げ、「もう二度と来ることはあるまい」と感傷に耽りつつ帰郷したことを思い出す。




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