【特別寄稿】
1970年代初期のインドネシアに在勤して

顧問・元陸自調査学校長 清水 濶
プロローグ
 私が防衛駐在官としてインドネシア日本国大使館に在勤したのは1971年(昭和46年)10月から1974年12月の4年間であり、冷戦の只中であった。翌年の1975年からはマレーシアを兼轄することとなり、この間に第3次インド・パキスタン戦争(以下印パ戦争と略称)、海上自衛隊練習艦隊のインドネシア訪問、同マレーシア訪問、田中角栄首相(当時)のインドネシア公式訪問と1月15日のジャカルタ騒乱(マラリ事件)及び田中首相の中国訪問と日中国交回復、ベトナム戦争の推移など、数多くの得難い経験を積む機会を得た。このほか南極観測船のジャカルタ寄港、インドネシア政府の群島理論に基づく内水宣言と日本漁船の拿捕問題などいろいろご紹介致したいが、紙数の関係もあり、当時のASEAN安全保障環境について回顧しつつ「第3次印パ戦争」と「田中首相のインドネシア訪問とマラリ事件」について防衛駐在官の感じたままを申し述べることと致したい。

1 1960年代後半から1970年代初期のインドネシアをめぐる安全保障環境
 スカルノ大統領の下、「民族主義、宗教、共産主義」を基軸とする容共的NASACOM(ナサコム)体制下で、1965年9月30日深夜から10月1日未明にアイジット書記長率いるインドネシア共産党(PKI)による「クーデター:9.30事件」が勃発し、これを迅速な行動によって完全に鎮圧した陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将は、1968年3月大統領に就任し、スハルトによる「新体制(オルデ・バルー:New Order)」が発足した。
 1960年頃から国際社会、特に欧米諸国は、東南アジアにおける「共産主義ドミノ理論」に警戒感を募らせていたが、党員350万と云われたインドネシア共産党の崩壊は東南アジア地域の政戦略潮流を変えた。容共スカルノ体制の終焉と反共を鮮明にしたスハルトの新体制の登場により、インドネシアは国連に復帰し、米国との関係は修復され、1962年以来険悪化したインドネシア・マレーシアの武力対決も1966年以降平常に復した。オランダとのイリアン紛争も1969年までに決着し、1967年8月8日にはインドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ5か国の発意による西側陣営寄りの地域機構としてASEAN(東南アジア諸国連合)が発足した。インドネシアはASEANの中心的存在として、スハルト大統領の下、国内的には「開発」を目標に新たな国民団結が図られた時期と云えよう。




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