【特別寄稿】
東洋的専制諸国家と日本国(下篇)
― 大国の威嚇と小国の卑劣 ―

筑波大学教授 古田博司
東洋理解の満鮮支モデル
 1894年の日清戦争の敗北により、否応なく近代へとその歩を促されるまで、東洋は一貫して古代の淵に沈んでいた。ところが、その淵は決して穏やかなものではなく、相互の絶えざる牽制によって小競り合いを繰り返し、辛うじて均衡を保つような類のものであった。
 本稿下篇はここから始まる。この舞台でのアクターは、即ちシナ・コリア・マンジュ(満洲)の三者であった。子宮型のシナは太古から文物が溜まり、周囲を圧倒する経済圏であったが、その主は征服によって容易に交替する「主の替る壺」である。その北東の卵管、山海関から満洲へと路が伸び、モンゴルの作った高麗人コロニー、遼陽があった。ここはシナ侵攻の拠点であると共に防衛の拠点でもある。更に満洲から南下して渡河すれば、そこは「行き止まりの廊下」コリアが日本との海峡まで垂下する。そして、その先は朝鮮海峡、対馬海峡、そして潮逆巻く玄界灘が東洋から日本群島を厳格に隔離していた。時は14世紀後半、元が明に替わると、高麗も李朝に替わった。明は元末の紙幣濫発によるインフレーションに懲り、国初は抑商政策から始まった。李朝も同じだった。
 明は元の作った満洲の遼陽の軍屯を占拠し、北方に追いやったモンゴルの空白に南下する満洲族に対抗するため、李朝に牛馬を大量に求めた。1万頭、3万頭などという厖大な数であり、李朝は分割払いにするのに骨を折った。15世紀後半、北方防衛の補給のため、明は抑商政策を転換し、銀の使用を許し、商人の力に頼るようになっていった。他方、李朝は抑商政策を続け、国境を閉じ、国内は現物経済のまま近代に至った。
 南下してきた満洲族は李氏朝鮮の国境沿いに集まり、明によって安堵された。鴨緑江対岸に住んだものを建州衞、豆満江対岸に住んだものを建州左衞という。建州衞は李朝に食糧を要求し、断られると河を渡り、民を掠取した。満洲族は満洲の大地を移動し、定住する時には砦のような屋敷群を築いた。農地を持ち、そこで拉致してきた明人や朝鮮人を農奴として働かせるのである。李朝が交通を遮断すると、建州衞は対抗し、1425年明に第一次朝貢を行った。これは明の臣下になったということであり、これより李朝と満洲族との臣下同士の争いが始まるのである。


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