『追悼 』兄貴と慕った人との別れ

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常務理事 長野俊郎

 15歳年上の「兄貴」、屋山太郎会長が亡くなった。
 昭和48年(1973年)だったか、小生の大分の高校時代からの友人が時事通信記者で「田中番」をしていた。その彼が結婚するということで小生がその披露宴の司会をすることになった。場所は大隈会館。新郎側の代表でご挨拶をいただいたのが新郎の上司で当時「官邸キャップ」だった屋山太郎さんであった。屋山さんは41歳。それ以来のお付き合いだから、かれこれ半世紀を超える。
 小生が元陸上幕僚長・参議院議員の永野茂門事務所にいた頃、難しい問題が起こるたびに議員から「屋山さんはどう考えているか聞いて来い」とよく言われ、走ったものである。その後、屋山さんは瀬島龍三、永野茂門の作った日本戦略研究フォーラムに設立当初から関わっていただき、ここ10年は理事、そして会長として公私にわたりご指導をいただいた。
 大所高所の話は他の諸兄に譲るとして、ここでは食通だった屋山さんの一面を書いてみたい。特に、鳩子夫人との新婚時代を過ごしたイタリアは、食通屋山を唸らせた料理が沢山あったようだ。モノを書いての気分転換には美味しいものを食べるに限るとお考えだったのか、よく「旨いものを食いに行こう」と誘われお供したことは数え切れないほど。
 春は、フランスから届く大ぶりのホワイトアスパラ、花ズッキーニ。
 初夏からメニューに登場する特製「かき氷」は、屋山さんの大の好物だった。金時、練乳、生姜、ほうじ茶、抹茶など好みのミツをかけて・・・我々が「ふ~、もう腹いっぱい」と満足しているところに、屋山さんは「もう一杯!」とお代わりを所望。その健啖ぶりに驚かされたものだ。
 秋には毎年イタリアから入荷の知らせが来ると必ず食した大ぶりのポルチーニ。これまで何個平らげたことだろう。
 勿論、会食の場には我々以外に政治家、政府関係者、軍人などが同席することもあるのだが、そこにはかつての辣腕政治記者と政治評論家としての屋山太郎の顔がある。常に話題をリードし、昔日の出来事とは思えない臨場感でその記憶を繙き、我々をその時代に導いてくれた。そこからヒントを得て活動している諸兄は今も各界に多数いる。
 既にかき氷の季節は終わっていた昨年の10月中旬、「何とかできないかお店に聞いてくれ」と言われ問い合わせたが、「材料が揃わない。来年の5月までお待ちください」と。「しょうがねえなぁ。じゃあ、5月まで待つとするか」
 その5月はもうすぐだ。今年は屋山会長の遺影と共に鳩子夫人と小生と家内の4人で、いつもの店にいつもの夏を味わいに行くことにしている。「俊郎君、いつ食っても旨いねぇ」と、例の笑顔で嬉しそうにしている屋山さんの顔が浮かんで来る。小生も齢76。涙腺の緩みに耐えられるか・・・。
 心からの感謝を捧げ、ご冥福をお祈り致します。