「武士道の精神」共有した日米
―戦後70余年、「歴史の負」から脱却できない中・韓の民族的悲哀―

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会長・政治評論家 屋山太郎

    2016年はバラク・オバマ大統領の広島訪問、安倍晋三首相の真珠湾訪問という歴史的な出来事があった。常日頃、戦争の謝罪は私以後の代には残したくないと語っていた安倍首相にとっては大事業の一つを終えたような心境だったろう。安倍氏が70年でケリを付けたいと思ったことをまだ忘れ難い人もいるが、早々に片を付けた人もいる。
 昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の成功を国民全員が喜んでいたが、父は「敵の死者は3000人だそうだが、民間人が68人巻き添えで亡くなった。誠に残念だ」と悔やんだ。父は戦闘員以外には被害を及ぼさないというジュネーブ条約の精神を説いてくれた。まさに武士道に通ずる精神だった。
 私は終戦時、中学1年生で翌年の陸軍幼年学校受験のために懸命に勉強していた。昭和20年5月25日、最後の東京空襲で渋谷区初台の自宅周辺は猛火に包まれた。私は小学3年生の妹の手を引いて、無我夢中で火の中を逃げ回った。道路工事中の土管の中に身を隠し火炎を逃れ、火事が収まった明け方、自宅の焼け跡に戻った。「子供を亡くした」と思い込み泣き叫んでいた母と再会した。父は大火傷を負い、消防団員が病院に運び込んだという。母と妹はたまたま長野県小諸で病気療養中の姉の病院近くに疎開し、私は父の看護のために病室で寝食を共にした。戦争はその後も2ヵ月半も続き、果ては広島、長崎への原爆投下である。後で、真珠湾攻撃は実は米大統領は事前に知っていたと知るが、父は「先に手を出した喧嘩が、見境なく激しくなって原爆投下にまで至る。68人の民間人の死に済まないと思っていたら、敵は一発で10万人の市民を殺した。喧嘩というものは所詮拡大するものだ」と総括した。
 父の闘病の苦しみについては語る言葉がない。「痛い」とも「苦しい」とも一言も発しない根性はさすが薩摩隼人だと感じ入った。入院中の2ヵ月半は私が全身で受けた最高の教育だった。終戦の詔勅は父と一緒に聞いたが意味がわからなかった。父は一言「敗けたんだ」と言った。口惜しい筈なのに心の片隅で安堵も感じた。くたびれ果てていたのだ。
 占領軍が進駐してきて間もなく、父の会社と米軍幹部との会食が開かれ私も端っこの方に同席したことがある。父は傍らの米空軍将校と楽しそうに談笑し、最後には立ち上がって握手をし、「記念に」と言って腕時計を交換した。後で聞くと父が被爆した5月25日に、その空軍将校は東京空襲に参加したのだと言う。「そんなことが何故嬉しいのか」と私は憤然として抗議した。
 「喧嘩は終わったんだ。イヤなことは一瞬にして忘れろ。そうすれば早く元通りになる」。そう言えば焼け出された時、中学の入学祝いに買って貰った自転車や腕時計を失ったことを話題にすると「忘れろ。意志で忘れることはできるんだ」と言われたものだ。戦争は昭和20年8月15日に終わった。中・韓両国がなお文句を言っているのは別の思惑があるからだ。
(平成29年1月4日付静岡新聞『論壇』より転載)