「9・30 事件再考」
―「 インドネシア共産党(PKI)の興亡」を読んで―(下編)

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産経新聞客員論説委員 千野境子

<3つのミステリーを墓場へ持って行ったスハルト>
 2008年1月27日、インドネシアの第二代大統領スハルトが首都ジャカルタで86歳の生涯を閉じた時、翌日の英字紙ジャカルタポストは《スハルトは3つのミステリーを墓場へ持って行った》との見出しで訃報を伝えた。
 3つのミステリーとは、第1に9・30事件、第2は事件から約6ヵ月後に初代大統領スカルノからスハルトへ権限を移譲する根拠となった「3月11日命令書」の有無、そして第3が1998年5月21日のスハルトからバハルディン・ユスフ・ハビビ副大統領への権力交代を指している。
 しかし第2と第3のミステリーは、スハルトを最高権力者に押し上げる契機となった第1 があればこそだから、つまるところ9・30事件が唯一最大のミステリーということになる。ジャカルタポスト紙はスハルトが事件について生涯沈黙を守り鬼籍に入ってしまったことを、そう表現したのである。
 勿論スハルト政権は「9・30事件はインドネシア共産党(PKI)によるクーデター未遂事件」との公式見解を早々と出している。しかし少なからぬ国民は、それを額面通りには受け取らず、スハルトこそ事件に深く関わり、真相を知る人物ではないかと思って来た。ただスハルト体制下でそれはタブーであり、スハルト史観への挑戦は許されなかった。
 私自身もスハルトは事件を墓場まで持っていくつもりだろうと思ってきたので、訃報に接した時、メディアはどこの国も似たようなことを考えるものだと可笑しかった。
 本稿(下編)では「スハルト後」に起きた9・30事件に関する様々な動きを取り上げる。

<事件の首謀者、陸軍大佐アブドラ・ラティフの証言>
 1997年7月、タイ通貨バーツの急落に端を発したアジア通貨・金融危機はインドネシアにも波及、スハルト体制を根幹から揺るがす事態となった。それとともに事件に対するタブーも形骸化して行く。やはり体制のグリップが効かなくなったからだろう。セミナーやシンポジウムなどが行われるようになり、1998年5月にスハルトが大統領を辞任して32年の独裁体制が崩壊すると、動きは更に加速した。
 中でも当時、大きな話題となったのが、首謀者の一人として逮捕され、獄中にいたジャカルタ軍管区司令部大佐アブドル・ラティフによる「スハルトは9・30運動のクーデター計画を事前に知っていた」との証言が明るみに出たことだった。