習近平主席の「アジアは運命共同体」発言
―社会構造と価値観が違えば“仲良し”にはなれない―

 
理事・政治評論家  屋山太郎 

 中国海南島で行われた国際会議で習近平主席は「アジアは運命共同体だ」と呼びかけて、域内の連携の強化を説いた。この席で二階俊博総務会長は習主席と会談し、二階氏が5月に観光業界関係者ら3000人を伴って訪中する意向を伝えた。習主席は「民間交流が大切だ」との考えを示したという。
 国同士で学生やビジネスマンの交流が深まると両国間が親密になることは確かだ。
 アメリカの日本占領政策が実にうまくいったのは戦後すぐにアメリカが行ったフルブライト教育交流計画をスタートさせたことだろう。フルブライト氏は上院議員として日本慰撫の最高の知恵を出した人物ではないか。私の3年先輩でフルブライト留学生でアメリカに招かれた友人がいた。行く時は「どこかで、どでかい仕返しをしてやろう」などと言っていた男がガラリと人が変って帰ってきた。「当分、アメリカの真似をしろ。知的レベルや交友関係に尊敬できる人物を選ぶことだな」と言う。民主主義社会に最高の価値を置き、そこに至るには言論の自由が不可欠なのだと言う。
 当時アメリカは日本の国立大学のトップレベルばかりを選んで毎年、何十人も継続して母国の大学に迎えた。何十人の中には何人かが反米になって帰って来ただろうが、親米派を創り出す歩どまりは恐ろしく高かった。帰国した彼らはほとんどが社会のエリートで、日本を親米色に染め上げた。その精神構造を単純というのは易しいが、“異文化”を吸収した時の満足感というのは人生を変えるほど大きい。私の初任地はローマだった。恐ろしいほど泥棒の多いところだが、それを抜きにして考えると、人間性の基本のところでは全く変わらない。ファッションのセンスなどは抜群だ。
 中曽根康弘氏は首相のころ、中国人留学生10万人計画をぶち上げた。頭の片隅にフルブライト式交換留学生方式でも思い浮かんだのだろう。しかし日本に留学した人物が親日派になったとしても、国に帰って日本を礼讃するわけにはいくまい。70年代の日中国交回復時は、政治家同士の“仲良し”が何組も出たが、その仲良しは一代限りのものだ。上海で日本の商社の支店長が退職後、それまで家族同然に付き合っていた人を訪ねたところ「玄関にも入れてくれなかった」と言う。「彼にとって貴重だったのは支店長という私の肩書だった」とガックリと肩を落とした。社会構造が違う。価値観も違うという人物とは互いに“仲良し”になれない。
 7世紀の初めから、日本が中国と付き合わなかったのは、価値観が違うゆえだった。足利幕府の時代に“貿易”があったのは、今の中国人の“爆買い”のようなもの。金品の流通が止まったら、あとに人情は残らないのが日中関係なのだ。
 習氏が「アジアは運命共同体」という意味は、中国が中心で、他の国はオレに従えということに他ならない。元寇の時、壱岐、対馬の住民の殺戮に加担したことについて、中国は謝ったことがあるか。



(平成27年4月2日付静岡新聞『論壇』より転載)

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