映画「The Lady アウン・サン・スー・チー引き裂かれた愛」を観て

理事・元駐ミャンマー大使  山口洋一

 リュック・ベンソン監督の新作「The Ladyアウンサンスーチー引き裂かれた愛」という映画を観た。リュック・ベンソン監督の映画と言えば、「レオン」など、なかなか見ごたえのある作品もあるので少しは期待していたが、なんたる駄作であることか。
 あまりの事実歪曲にいたたまれず、途中で退席したくなったが、どうにか最後まで我慢した。「この映画はフィクションです」と断った上での娯楽映画であればまだしも、「事実に基いている」という触れ込みなのだからひどい。

   事実歪曲は山ほどあるが、まず第1に、この映画の主題となっている「引き裂かれた愛」は嘘っぱちもいいとこである。ミャンマーでは周知のことだが、彼女には「現地妻」ならぬ「現地夫」がいる。不倫の相手は医者で、その名前も知られている。敬虔な仏教徒であるミャンマー人たちは、釈尊の教えを重視し、在家信者も守るべき「仏の五戒」には誰でも従っている。その「五戒」の1つが「不邪淫(ふじゃいん)戒(かい)――つまり淫らな性行為をするなかれ」なのだから、夫婦以外の男女関係は極端に嫌われる。彼女とマイケル・アリスとの夫婦愛はとっくに破綻していたのである。マイケル・アリスが死期に臨んだ際、政府は彼女に英国行きを勧めたが、彼女は行きたくなかったので、「出国すれば戻れなくなる」などと口実をつくって応じなかったに過ぎない。
  これ以外にも事実と異なるところは多々あるが、特にひどい幾つかを挙げてみよう。
  ・ 発砲を命じた兵士をネーウィンが射殺する場面。「殺すなかれ」という「不殺生戒」を尊重するこの国の人が、このような行為をすることはあり得ない。88年の大騒乱の際などに、発砲による死者が出たと報道されている。しかし実態は、混乱に乗じてならず者や無頼漢が暴れ回ったのが犠牲者を生んだ主因であり、命令に従って軍や治安警察が発砲したのは、例外中の例外に限られる。
   
 ・ インセイン刑務所内の場面。これは明らかにセットで、囚人を犬小屋と同じような小さな檻に閉じ込めている様子など、実際の状況とかけ離れた人権侵害の有様が意図的に映し出されている。私はこの刑務所を視察し、収監者と面談したことがあるが、風呂(水浴び)は1日2回、週1回は家族との面会が許され、差し入れも受け取れるし、医療面での配慮もなされている。況や拷問など、その気配すら感じられなかった。世に流布されている噂話とは大違いであった。
   
  ・ 女史がハンガー・ストライキをする場面。刑務所で人権侵害のひどい仕打ちがなされているという筋書きを強調するために、ハン・ストのシーンを設定したのであろうが、このような事実はない。
   
  ・ 女史に銃を向ける場面。政府は女史をアウン・サン将軍の娘ということで、特別扱いしてきた。95〜97年頃彼女が行っていた週末の演説集会は、彼女が邸宅の門の上に乗り出して、路上に集まった人々に語りかけるやり方を続け、この路上集会は明らかに法令違反なので、政府は「邸内の広い庭でやってください」と要請するのだが、「政府に言われて庭に引っ込むのは民主主義の後退である」として、頑固に違法集会を続けた。違法行為なのだから、政府は彼女を逮捕し、収監することもできたのであるが、アウン・サン将軍の娘だということで大目に見て、よくも我慢し続けたものである。これほど彼女に気をつかってきた政府であるから、彼女に銃口を向けることなど、絶対にあり得ない。
   
  ・ 彼女を女性活動家として理想化するあまり、彼女に都合の悪い事実には全く触れられていない。彼女の実態はアメリカの傀儡であり、アメリカから金も物も来ており、なによりも彼女がワシントンと連絡をとりながら、むしろその指図に従って行動していることについては一切黙して語らずとなっている。上述の不倫については、もとよりその気配すら感じさせる場面などない。
   
 仮にこの映画がフィクションの娯楽映画であったとしても、ミャンマー人を矮小化して描く、歪んだ場面が多く、不快感を禁じ得ない。
 例えば、アウン・サン・スー・チー邸の敷地内で警護に当たっている兵士が、邸内で女史が奏するピアノの音が聞こえてくるのを耳にして、「何か音がする」との言葉を発し、「あれは音楽なのだ」と知らされる場面などは、いくら何でもミャンマー人を無知蒙昧の連中であるかのように描いている。王朝の時代から、この国には優れた歌舞音曲の伝統が存在しているのである。
   
 ロケーションはミャンマー国内での撮影が多くを占めている。アウン・サン・スー・チー邸の場面がふんだんにちりばめられているが、これもセットではなく、実際に彼女の豪邸を使って撮影したものと思われる。私は何回もこの邸宅を訪問したが、建物自体はもとより、背後に面しているインヤ・レイク、それに鉄格子の門構えや道路を隔てた向かい側の建物の様子まで、まず実際のアウン・サン・スー・チー邸に間違いない。シュエダゴン・パゴダなどヤンゴン市内の場面も、実際にその場所で撮影されている。
  撮影は多分民政移管後になされたものであろうが、これほど自由に撮影を許可したのは、自由化、規制緩和を進めているテイン・セイン新体制の度量を示している。
   

ホームへ戻る