保守合同60年
―立党の精神を再確認せよ―

理事・拓殖大学海外事情研究所准教授 丹羽文生

はじめに
 1955年11月15日、中央大学駿河台講堂にて日本民主党と自由党の保守合同による「自由民主党」の結成大会が華々しく開催された。以来、一時期を除き、長年に亘って政権政党の椅子に君臨してきた。保守合同の推進役の1人である三木武吉は、保守合同時、10年持てばとも評したが、今や、それを遥かに越え、今年で60年、人間に例えれば還暦を迎えたことになる。
 初代総裁の鳩山一郎から再登板した安倍晋三までの25人の総裁中、河野洋平、谷垣禎一以外、「日本丸」の「船長」たる宰相を実に23人産み出した。この間、汚職や腐敗といった国民の信頼を著しく失墜させるスキャンダル、不祥事を起こし、幾度となく窮地に立たされながらも、敗戦という瀕死の状態から脱して、日本を世界に名立たる経済大国に築き上げたその牽引役は、紛れもなく自民党であった。
 それにしても、なぜ保守合同だったのか。保守合同に関わった人々それぞれに何らかの企み、思惑、下心はあったにせよ、少なくとも彼らに底通していたのは「自主独立の完成」、具体的には「占領諸法制」の見直し、「現行憲法の自主的改正」を図ることへの強烈な思いがあったからだと言われている。
 確かに教育基本法の改正を始め、「占領諸法制」の見直しは着実に進んでいる。しかし、「自主独立の完成」の本丸とも言える「現行憲法の自主的改正」は未だ成らずである。「現行憲法の自主的改正」に堂々と異を唱える元総裁もいれば、自民党員でありながら自らのレーゾンデートルを忘れ護憲派「九条の会」に出入りする地方議員もいるという有様である。
 60年の節目に当たり、もう一度、保守合同の意味合いを考える必要があるのではないだろうか。それが本稿執筆の最大の動機である。

岸と重光の共通目標
 保守合同への流れが本格化したのは、主権回復を目前に控えた1952年2月8日に改進党が結成されてからであった。改進党は「綱領」の中で「独立国家の完成」を謳い、具体的には「民力に応ずる民主的自衛軍を創設して、速かに安全保障条約を相互防衛協定に切り替え」るとし、「占領下の諸法令(憲法含む)諸制度を全面的に再検討」すると主張した。これは明らかに、国防はアメリカに頼り専ら経済再建を最優先させ、そのために憲法改正はせず再軍備も排すという吉田茂の方針(「吉田ドクトリン」)への牽制であった。
 一方、同じ頃、A級戦犯の被疑者となり、巣鴨拘置所に収監され、不起訴のまま無罪放免、その後、追放解除となった岸信介が、政財界、言論界のオピニオンリーダーを集めて「日本再建連盟」を設立し、啓蒙運動をスタートさせた。大東亜戦争開戦時の商工大臣であり、結果として敗戦を招いたことに責任を感じた岸は廃墟と化した日本の立て直しを図ろうしたのである。
 これに相談役で加わったのが重光葵であった。A級戦犯の容疑者として逮捕、やがて起訴された重光は、7年の禁固刑に処せられ、仮釈放になるまでの4年7ヵ月間を巣鴨刑務所で過ごす。減刑による刑期満了後、しばらくの間は隠忍自重するが、晴れて追放解除となると、早速、始動した。ミズーリ号上で首席全権として日本の降伏文書にサインをしてから約6年半が過ぎていた。
 重光は岸よりも9歳年上だったが、獄中で「日本再建」について論じ合う仲となる。そんな2人には「自主独立の完成」という共通目標があった。その基本軸が「現行憲法の自主的改正」である。岸は「占領革命」の残骸とも言える日本国憲法を「根本から一応考え直してみる」(「新保守党論」)べきと訴え、重光も「憲法改訂は当然のこと」(『続重光葵手記』)と力説する。
 重光は改進党結成から4ヵ月後に総裁に招聘され、その際、「国家自衛に関する基本方針」を打ち出している。その内容は憲法改正に触れるものであった。吉田が口にしない憲法改正に踏み込みこむことで親吉田勢力を揺さぶったのである。
 さらに「自主独立の完成」を確実なものにするためには、現実を見据え、かつての敵国であるアメリカとの協力関係を築くことが必要不可欠であると考えた。岸も重光も当初こそ反米意識が強かった。ところが、アメリカを盟主する西側陣営とソ連を盟主とする東側陣営による冷戦が始まり、朝鮮戦争が勃発して共産主義勢力の拡大が顕在化してくると、2人の心境に変化が表れる。
 岸は「終戦に前後するソ連の行動は、共産主義の実態が何であるかを具体的にみせつけたようなもの」で、「ソ連に対抗するには日本の力だけではどうにもならん、アメリカを利用してやっていく以外に方法はない」と思うようになったと述懐する(『岸信介証言録』)。したがって、講和問題に際し、西側諸国だけとの多数講和か、東側陣営をも含めた全面講和かで国論が割れる中、最終的に多数講和に踏み切った吉田の決断を「戦後最高、最大であったと思う」(『岸信介回顧録:保守合同と安保改定』)と絶賛している。重光に至っては、講和条約をアメリカのソ連に対する「宣戦布告を見た様なもの」とし、「日本を味方に取り入れた」ことにより「米国の地位は非常に強くなった」と評している(『続重光葵手記』)。
 しかしながら、日本がアメリカの盟友になったからと言って、それは断じて媚び諂うような自主性、主体性なき対米追従であってはならないことを2人は得心していた。岸は講和条約と同時に結ばれた日米安保条約の不平等性を見直し、「自分の力で自分の国の独立を守る、よそから侵略してくるものに対しては自分の国の尊厳と独立だけは維持するということは当然」(「新保守党論」)とし、重光も「平和を護りぬくためには、自衛の軍備は備えなければならない。これは自明の理である。国防を他国に委せては、国家の存立は到底期し難いからである」(「朝日新聞」)と、再軍備を主張した。ただ、この段階で2人は、まだ国会に議席を有してはいなかった。




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