世界遺産

元法務大臣   長勢 甚遠

 私はずっと前から「世界遺産」なるものに反感を持っている。そして、日本に蔓延する「世界遺産」の獲得騒ぎ、礼賛騒ぎに反感を持ってきた。8月31日付けの「最近気になったこと」では宗像大社の「世界文化遺産」申請について「観光目的に神々を売り渡すものではないか」と控えめに批判したが、そもそも「世界遺産」を有難がる風潮を苦々しく思っているのである。
 遺産とはそれぞれの民族の営みの中で培われてきた風土、文化、歴史の中で大事にされてきたものである。何が大事なものかはその民族の心によって決まる。そもそも世界に共通の遺産などあるわけがない。ローマの遺跡はイタリーの人にとっては大事なものであろうが、ローマの歴史をかかわりの無い日本人の私にとってはパンダが珍獣とされるのと同じく珍しいものとしても、それだけのことに過ぎない。民族の心を離れたところには遺産という概念は成り立たない。
 にもかかわらず、「世界遺産」というものが作られているのは、遺産を大事にするということとは違うところに目的があるに違いない。それは「世界遺産」の承認が国連機関であるユネスコにより行われていることと関係しているであろう。国連とは何らかの価値観(多分西洋文明)のもとに世界を統一し、世界をその支配下に置くことを目的とするものである。そのために軍事、経済、文化各分野においてあらゆる手段を講ずることとしており、ユネスコなど国連機関はそのために設けられている。それが承認する「世界遺産」とは、それぞれの民族が大事にするものとは関係なく、その事物が国連の有する価値観に添ったものであると認めてやるという権力的な仕組みに過ぎない。「世界遺産」の承認を得るとは、それぞれの民族が大事にしてきたものが国連の隷従下におかれるということである。それぞれの民族が大事にしてきたものが民族の心からのものとは違うものへの変容を強制されるということである。文科省が中心になって、世界遺産の要件に合致するように遺産そのものの変改を迫っているではないか。世界遺産になるということは日本人の遺産ではなくなるということである。
 このようなことに加え、「世界遺産」をいかがわしいものにしているのは、その承認の権限を持っている者、その承認を受けたがる者は誰かということと関わる。
 「世界遺産」の承認の権限を持っているのはユネスコの役員、職員である。ユネスコに限らず、国連機関の役員、職員は一般的には出身国ではみ出し者とされている者で、国連の権威を利用して一儲けしようという者により構成されていると言ってよい。彼らは「世界遺産」によって一儲けすべく、「世界遺産」に群がる各国を訪問し利権を貪ることになる。そしてその範囲を拡大しようとする。各国にはその手先となるものも生じ、それらの甘言に乗せられて被害を受けものも出る。こんなユネスコのやることなどいかがわしいことになるに決まっている。
 日本において「世界遺産」の承認を受けたがるのは観光業者であり、それと結託する文科省、地方首長である。「世界遺産」のお墨付きをもらって国内外の観光客を誘致しようという思惑の者たちである。先祖から受け継がれてきた大事にすべきものを見世物にし、カネにしようということであるから遺産に対する冒涜と言ってよい。この手合いとユネスコの役、職員との利害は一致する。それが「世界遺産」のに対する不自然な賞賛、願望のもとと言ってよい。そんなものがいかがわしいものでないわけがない。
 かくして、目的においても実態においてもいかがわしい「世界遺産」によりそれぞれの民族の貴重な遺産は損傷、棄却され、その文化は滅ぼされる。それを尊重する心を持たない観光客の利便を優先する「世界遺産」には反吐が出る。他人に褒められることは悪いことではないが、何もわからずにただ珍しいと褒められることを過度に有難がるのは考えものだ。どこそこはこうなっているからここもこうすべきだ、などと言われるのは失礼な話だ。まして商売になるからなどというのは論外な話だ。我々のものは我々のものとしてずっと大事にしていきたいものだ。富山県でも石井知事などが立山を「世界遺産に」と運動しているようだが、汚れない崇高な立山を心のふるさととしてずっと仰いでいたいものだ。
 以上が「世界遺産」についての私の気持ちだが、こんな話に賛同してくれる者に出会ったことはない。ところが、最近、中共が推薦した南京虐殺事件の資料が世界記憶遺産に登録されたとかで「世界遺産」について異論も出ているようだ。問題の南京事件の資料とはどんなものか知らないが、政府はそれに反対してきていたにもかかわらず登録されたことについて「ユネスコの政治利用」として抗議している。そういえば軍艦島を世界遺産にすることについて朝鮮が反対し、すったもんだしたことを思い出したが、「世界遺産」も観光利用から政治利用に範囲を拡大してきたのだろうか。また、この事件で「世界遺産」にもただの「世界遺産」だけでなく、「無形文化遺産」「農業遺産」「記憶遺産」などたくさんあることを知った。カネさえ出せれば誰でも「世界遺産」にしてあげますよと言わんばかりのユネスコ役職員の商売上手の商魂には感心するばかりだ。それもこんなことに釣られるものが世界中にいるからこそであろう。
 「世界遺産」はいかがわしいと思い込んでいる私には、こんなことは予想されたことで驚くことではなく馬鹿馬鹿しい限りだが、奇しくも10月15日の北日本新聞、富山新聞両紙に揃って「世界遺産」に関する記事があったので興味を惹かれた。両紙の論調は正反対といっていい。
 富山新聞のは「時鍾」というコラム記事で、南京事件の世界遺産登録問題で争いをけしかけたのはユネスコとし、「世界ナントカ遺産」の多いことを指摘し「やたら遺産を振る舞うのは、道楽息子みたいである。」と揶揄したうえ、「ユネスコに対する高額の拠出金を見直す動きが出てきた。遺産に浮かれる道楽息子をいさめるためには、オキュウも仕方あるまい。」と結んでいる。南京事件登録には言及していないが、「世界遺産」について真っ向から問題提起しているのは珍しい。
 一方、北日本新聞のは「南京大虐殺の遺産登録 問題の本質は数ではない」と題する社説である。安倍総理らが登録に抗議していることによほど腹が立っていると見える。その気持ちがありありと伝わる記事だ。一応申し訳程度に「審査の透明性や中立・公平性について検証と改善が求められるのは当然である。」と、どうでもいいことを述べたうえで、「日本の主張が“負の歴史”から目を背け、まるで何事もなかったかのようにしたいと受け止められるようであれば、国際社会の信用は得られないだろう。いの一番にユネスコへの拠出金の停止や削減を持ち出すなど、カネの話で揺さぶりをかけるような行動は品位を疑われる。」と中共支持、安倍内閣批判を宣明している。
 同紙の意図はこれを機会に日本軍により南京大虐殺が行われたことを県民に徹底させることにあるようだ。まず、中共が30万人以上の犠牲があったとすることについて、昭和22年の南京戦犯軍事法廷の判決が認定しており、東京裁判でも20万人以上とされているとし、その正当性を強調している。さらに、日本の研究ではさまざまな推計があるとしつつ、当時の外務省局長の日記を引用して「日本軍がもたらした惨劇は隠せない」とし、「“30万人以上”が当時の人口からして考えられない数字にしても、数が問題の本質ではない。犠牲者がたとえ2万人でも4万人でも、残酷な事件だったことに変わりない。加害の責任を忘れてはいけない。」と県民を諭している。北日本新聞の本性を明確にしており、面目躍如というほかない。
 その当否を争う資格はないが、勝者の都合で行われた南京戦犯軍事法廷判決を持ち出すなど正体見たりの感がある。そこまで言うのであれば、当時南京では日本軍に対する怨嗟の声はなく歓迎されたこと、外人宣教師から死体は見たことがないとの報告があること、当時の南京において中国共産党軍により日本軍の仕業と見せかけた虐殺が行われたことなどについての説明も聞かせてもらいたいものだ。そもそも南京大虐殺事件が世に言われるようになったのは昭和40年代に朝日新聞が宣伝し始めてからであり、昭和50年代までは中共は一言もこの問題に言及していなかったことについても説明して欲しいものだ。又、残酷な事件の責任を忘れるなと言うのであれば、支那事変前後に中国共産党により行われた通州事件など多くの日本人虐殺事件こそ県民に知らせて欲しいものだ。
 観光であれ、政治であれ、世界遺産などに利用されて我々が大事にすべきものが失われていくのは耐え難い。ずっと民族の心の基礎として守っていかねばならない。


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