【特別寄稿】
台湾「ひまわり学生運動」と香港「雨傘革命」
拓殖大学海外事情研究所教授 澁谷 司
 2010年6月、台湾の与党・国民党は、中国共産党と「両岸経済協力枠組協定」(Economic Cooperation Framework Agreement、略称ECFA)を重慶で結んだ。
 2013年6月、今度はECFAを具体化するために、国民党と中国共産党は「両岸サービス貿易協定」を締結した。そして、翌2014年3月、立法院で批准する運びとなっていた。
  実は、国共は「第三次国共合作」の一環として、両岸の経済統合を目指していたのである。その後、両党は、両岸の政治統合を行うシナリオを描いていたに違いない。
 けれども、「中台統一」への危機感を募らせた台湾の学生が、同月18日、突然、立法院を“不法”占拠した(翌4月10日まで)。その後、未だに同協定は批准されていない。
 この「ひまわり学生運動」が台湾社会に与えた影響は大きかった。近頃(11月29日)行われた台湾統一地方選挙では、若年層(20〜35歳は有権者の約30%で約500万人)の投票率がアップした。政治的に無関心だった若者に“覚醒”が起きたのである。
 そのため、(6直轄市を含む)全国22県市長選挙では、野党・民進党が大躍進した。とりわけ、(全人口の7割近くを占める)6直轄市では、民進党が4市で勝利した(台北市長に当選した柯文哲氏は無所属での出馬だが、民進党の全面的支持を得たので、事実上、民進党の5勝1敗とも言える)。
 一方、「一国二制度」下にある香港では、2014年8月末、中国共産党が、全国人民代表大会で、香港行政長官候補者は1200人の「指名委員会」(大部分が「親中派」である「選挙委員会」からの横滑り)の過半数の同意が必要だと決定した。これにより、候補者は「親中派」の2〜3名に絞り込まれ、「民主派」は排除される。
 元来、2017年の次期行政長官選挙は、1200人の「指名委員会」中、150人(全体の8分の1)以上の推薦があれば立候補できる、とされていた。中国共産党はこの国際公約を反故にした。これでは、普通選挙ではなくなり、単に「親中派」候補者を選択する制限選挙へと変わる。
 北京の公約違反に対して、香港の学生が翌9月26日「雨傘革命」を起こした。現在の「高度な自治」が失われるという危機感を抱いたのである。中高生や大学生を中心に、香港の主要数ヶ所で大規模なデモを繰り広げたのである。
 多くの若年層は、「雨傘革命」を支持していたし、一部はこの運動にも参加した。中高生・大学生にとっては、「一国二制度」が終了する2047年はまだ50歳前後である。だから、若い世代ほど、「高度な自治」を死守しようという気持ちが強かった。
 話は横道にそれるが、最近、日本では、コミック・アニメの『進撃の巨人』(諫山創原作)が流行っている。この物語では、人類は高い3重の壁の中で100年間、平和に暮らしていた。だが、ある時期を境にして、大巨人が一番外壁のウォール・マリアを破壊して侵攻し、人を食すようになったのである。母親を食われた主人公のエレンは、彼の家に同居していたヒロイン、ミカサや幼馴染のアルミンらと勇敢にも巨人に立ち向かう。
 香港の若者たちは、この巨人こそが中国共産党であり、平和な壁の中で暮らしていた香港人の未来を脅かす存在だと見做した。他方、若者は自らをエレン・ミカサ・アルミンらに重ねたのである。
 しかし、香港の大半の中高年は、デモに反対していた。現状のままで十分満足できる(香港の中国への返還後、行政長官選挙は民選ではなかった)し、33年後、自分たちが生きているかどうかもわからない。だから、デモによる混乱で、今の生活が脅かされる事態を危惧したのである。
 かかる状況下で、香港の若年層と中高年層でデモに対する評価は真っ向対立していた。そのため、学生運動は、徐々に追い詰められていった。そして、同年12月15日、香港当局がデモの拠点を完全に撤去し、ついに「雨傘革命」は終わりを告げた。
 さて、なぜ台湾の「ひまわり学生運動」は“成功”し、香港の「雨傘革命」は“失敗”したのだろうか。
 第1に、香港には、強いリーダーシップを取れる学生が限られていた。せいぜい17歳の大学生、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)ぐらいである。“学生運動の女神”と呼ばれた、同じく17歳の周庭(アグネス・チョウ)は、途中から一運動員へとおりてしまった(ちなみに、学生運動事務局長の周永康は、中国大陸で失脚した元政治局常務員の周永康と同姓同名でイメージが良くなかった)。
 一方、台湾には、国立台湾大学の林飛帆と国立清華大学の陳為廷という二人のカリスマ的大学院生がいた。
 第2に、香港には、強力な後ろ盾となる有力な人物がいなかった。デモの先頭に立った香港大学法学部准教授、戴耀廷(ベニー・タイ)らにしても、12月に入り、突如、当局へ“自首”している。
 ところが、台湾では、王金平立法院長が、学生運動に同情的だったせいか、警察を使って学生らを立法院から排除しなかった。また、王院長は学生の声に耳を傾けた。さらに、王院長の背後には李登輝元総統が存在していたと思われる。
 第3に、既述の如く、香港には世代間のギャップが大きかった。中高生・大学生と一般市民では、対中国への思いが異なり、全体的に「雨傘革命」支持者が少なかった。
 けれども、台湾では、世論が「ひまわり学生運動」を後押しした。実際、学生による立法院“不法”占拠中(3月30日)、35万人(主催者発表。一説には50万人)の大規模なデモが起きて、立法院を取り囲んでいる。
 第4に、香港で、学生らは主要市街地の占拠を続けた。だが、長期戦は、学生側には不利だった。80日以上道路等を占拠すれば、当然、一般の市民生活に支障をきたしたからである。
 一方、「ひまわり学生運動」は、原則、狭い立法院の中で行われたので、(立法院周辺住民以外の)一般住民に大して迷惑をかけなかった。また、同院の占拠はわずか23日間という割と短期間で終結している。
 王金平院長が、「両岸協議監督条例」制定を確約し、その後、再度「両岸サービス貿易協定」を逐次審議すると約束したからである。
 第5に、「一国二制度」下の香港には人民解放軍が存在した。そのため、いつでもデモは弾圧できる体制にあった。最終的に、学生のデモは、(解放軍が登場するまでもなく)中国共産党と香港政府に切り崩されていった。
 他方、台湾は言うまでもなく、「一国二制度」下にない。これは香港と台湾の決定的な違いである。
 第6に、最初、香港「雨傘革命」に対し、世界からFacebook等のSNSで多くの声援が送られていた。だが、オバマ米大統領は、口先で習近平国家主席を牽制しただけである。
 また、香港の元宗主国イギリスは、同地へ英議員を調査派遣しようとした。だが、中国側に拒否されている。国際世論、特に米・英が、結局、「口先介入」だけで終わったことも、「雨傘革命」が“失敗”した要因だろう。



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