澁谷 司の「チャイナ・ウォッチ」 -35-
3・1瀋陽軍区クーデター未遂事件
政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所教授 澁谷 司

 2014年3月15日、かつて「東北の虎」と呼ばれた徐才厚の腐敗・汚職調査が始まった。「上海閥」の徐は郭伯雄と共に、中央軍事委員会副主席(制服組トップ)だった。だが、既に徐才厚は12年11月の中国共産党で全職を退いていたのである。14年6月、徐才厚は党籍を奪われ、続いて同年10月、徐は起訴された。
 徐への調査が開始されたちょうど1年後(2015年3月15日)、北京301病院で徐才厚は膀胱癌による多臓器不全のため死亡している(殺害説もある)。享年71歳だった。
 徐才厚が影響力を持っていた瀋陽軍区は人民解放軍の7大軍区中、特別な役割を持つ。同軍区はロシア・モンゴル・北朝鮮に国境を接しているので、解放軍精鋭部隊5つのうち、4つが同軍区に集中している。仮に「第2次朝鮮戦争」勃発やロシアとの武力紛争が生じた際には、この軍区の活躍が期待されている。

 さて、香港で出版された『総参少壮派兵変』によれば、徐才厚の失脚寸前に、瀋陽軍区で徐の部下によるクーデター未遂事件があったという。真偽のほどは定かではないが、その概要は以下の通りである。
 徐の部下で瀋陽軍区39軍115師団装甲団の王旭東副団長らは、徐失脚の噂を知り、約800人でクーデターを起こそうとして装甲車2輌を出動させた。そして、一時、王旭東らは団のビルを占拠している。
 けれども、115師団の中に、クーデター反対派の同政治委員 張書国(現39軍政治委員)がいた。張は装甲車10輌で王旭東らと対峙している。結局、王旭東らは逮捕され、クーデターは失敗に終わった。もし、このストーリーが事実だとすれば、習政権に対するクーデターが今後また繰り返されてもおかしくはないだろう。

 ところで、2012年2月、徐才厚の部下 谷俊山(元軍総後勤部副部長)は、汚職等の疑いで調べられることになった。通常、中国共産党のやり方として、まず「将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ」である。初め、外堀を埋めてから本丸に迫る。谷俊山は徐才厚と関係が深い。そこで、まず谷が標的となった。
 谷は自分の20歳の娘を徐に差し出したり、湯燦(現在、服役中)等のスターを徐に斡旋したりした、という。だから谷俊山は出世を果たした。ちなみに、谷が「中国の女性スターとは遊び飽きた」と言ったという話は有名である。
 2013年1月、総政治部歌舞団に2週間に1度集まる「将軍クラブ」ができ、徐才厚を中心に現役軍人やら退役軍人やらが多数集まってきた。
 当時、習近平・王岐山が始めた「反腐敗運動」について、軍人達は支持派・反対派に分かれた。運動支持派は徐々に、「将軍クラブ」から離れていった。すると「将軍クラブ」は、自然と「反腐敗運動」反対派だけになっていく。
 2013年5月、徐才厚らは、天津で王岐山の乗った自動車を爆発させ、暗殺しようと企てた。だが、結果は、未遂に終わったと言われる。徐才厚をはじめ谷俊山の部下らは、何とか谷を助け、王岐山を亡き者にしようとしたのである。

 実は、徐才厚が後ろ盾の谷俊山は、「太子党」の軍人 劉源(「改革派」劉少奇元国家主席の息子)と折り合いが悪かった。劉源が谷俊山の腐敗を暴露したからだという。そこで、谷俊山は総後勤部政治委員の劉源を排除しようとした。しかし、それは失敗している。
 周知の如く、元々劉源は失脚した薄熙来元重慶市トップ(「保守派」の重鎮、薄一波・元国務院副総理の息子)と親しかった。2011年11月、胡錦濤国家主席がAPEC(ハワイ)で外遊している間に、薄熙来は劉源と密接な関係にあった張海陽を使って軍隊を動かした。それが胡錦濤国家主席(当時)の逆鱗に触れたという。
 2012年2月「王立軍事件」(成都の米領事館に王立軍が逃げ込む)が発生すると、これを奇貨として、胡錦濤政権は薄熙来を失脚させたのである。
 翌13年3月、習近平体制が発足すると、劉源は習近平(「改革派」の胡耀邦と親交があった習仲勲の息子)国家主席に忠誠を誓うようになる。これは薄熙来に対する“裏切り”とも言えよう。劉源は世渡りが上手なのだろうか。

 それにしても、「反腐敗運動」はいつまで続くのか。習近平政権が気に入らない者、刃向う者は、“恣意的”に党規違反を問われる。その後、その党員は職務を解かれ、党籍を奪われ、起訴され、裁かれるという道をたどる。しかし、こんな理不尽な事がいつまでも続くはずはないだろう。


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