在日米軍経費負担増の求めは30年前から

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顧問・麗澤大学特別教授 古森義久

 「日本に在日米軍駐留経費の全額負担を求め、応じない場合は在日米軍を毎年、5千人ずつ撤退させる」――
 
 さてアメリカ側のこんな要求を聞けば、当然、トランプ大統領の最近の日本への苦情を連想するだろう。同大統領は日本側のいまの在日駐留軍経費の負担を4倍にすることを求めているとも報じられた。
 ところが上記のアメリカ側の要求は実はちょうど30年前の出来事だった。しかも連邦議会の下院本会議が全会一致で可決した法案の主旨だった。
 アメリカが超党派で日米同盟の片務性や日本の防衛負担過少にいかに長い年月、不満を感じてきたかの例証である。日本にとっていまこそ不可欠な日米同盟の堅持を求めるならば、このアメリカの実態を歴史的にも知っておくことが必要だろう。
 
 私がこんな古い話を持ち出すのはこの8月2日が第一次湾岸戦争の原因となったイラクのクウェート侵攻の30年目の記念日だからだ。この戦争は日本に国際的な屈辱をもたらした。国家としてのあり方への根幹からの再考を余儀なくさせた。
 1990年8月2日未明、イラク軍の大部隊は隣国のクウェートに雪崩れ込んだ。フセイン大統領指揮下の精強部隊は一挙にクウェート全土を占領した。クウェートが産油国としてイラクの要請を無視して異様な石油増産を続けたことへの抗議から始まった侵略だった。
 ワシントンにいた私は当然、この大異変へのアメリカ政府の対応を追うことになった。当時の初代ブッシュ政権は不意を衝かれていた。政府や軍の首脳は夏休み態勢だった。大統領も国防長官も翌日は国内旅行に出かける予定だった。
 だが予期せぬ衝撃を受けたブッシュ政権も対応は敏速だった。フセイン大統領の行動を国際規範違反の侵略行動と断じ、撤退を迫る一方、応じない場合の軍事制裁の準備を国内、国際の両面で始めたのだ。
 当時の世界では前年の89年11月にはベルリンの壁が崩れ、ソ連の共産党体制が揺らいでいた。その翌月にはマルタでの米ソ首脳会談でゴルバチョフ書記長は東西冷戦の終わりという言葉を口にして、アメリカへの対決の終結を示唆していた。
 国際情勢のそんな地殻変動の中でのイラクの軍事侵略だったのだ。
 ブッシュ政権は国連に呼びかけ、イラクの侵略への経済制裁と軍事力行使容認の決議を取りつけていった。その決議を基礎に各国に多国籍軍への参加を求めた。アメリカ国内でも予備役召集など軍事行動への準備を進めた。
 イラクの侵略性や無法性があまりに明白だったため、アメリカの行動を国際正義として同調する国が多かった。アメリカ国内でもイラク糾弾は超党派の強いコンセンサスとなった。 
 だがイラクはクウェートに50万もの部隊を駐留させ、武装を強化して、撤退の求めには応じなかった。ブッシュ政権は超大国のリーダーシップを完全に発揮して、戦後史でも稀な多国間の団結でイラク軍を粉砕した。そして東西冷戦後の世界の新秩序を固めることに成功した。
 だがその過程では日本だけが国家としての欠陥をさらし、国際的な屈辱を体験した。アメリカが主体となり、国連の承認を得た対イラクの多国籍軍に参加しなかったからだ。日本は国際協力への異端を発揮したのだ。
 アメリカは当時、世界第二の経済大国であり、ペルシャ湾経由の石油への依存が世界最大の日本に多国籍軍へのなんらかの参加を切望した。とくに同盟国同士だから、と懇願した。合計37の諸国が加わった国際部隊だったのだ。
 ブッシュ大統領は海部俊樹首相に「日本が多国籍軍に協力するか否かは今後の日本が責任ある大国になるかどうかの分岐点になる」と警告した。だが日本は軍事の効用を否定する憲法を理由に一切の人的寄与を拒んだ。そして130億ドルの資金だけを提供して、「小切手外交」と揶揄された。
 アメリカの各界で日本を「自国中心すぎる」と断じる非難が広がった。1990年9月には議会下院に民主党のデービッド・ボニア議員らが日本への圧力と懲罰を加えるためにより多くの防衛貢献を求めて、この法案を提出したのだった。
 「多国籍軍への貢献とともに同盟国アメリカを助けるための在日米軍駐留経費の全額負担を求める」という趣旨の法案だった。そしてこの法案は1週間ほどで下院本会議で可決されてしまったのだ。
 幸いこの法案はアメリカ政府の公式政策とはならなかった。だが日本に日米同盟へのより多くの負担や国際安全保障へのより多くの貢献を求める声は、すでに30年も前からアメリカには存在したということだ。
 私自身がそれまで日本には好意的な言葉だけを聞いていた共和党のジョン・マケイン上院議員までが「自国を守る国際安全保障のためにも危険は一切冒さないという日本の態度は、全世界の軽蔑とアメリカの敵対を買うだろう」とまで断言したのにはショックを受けたものだった。