自国民を救えない異端国家・日本の今と昔

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顧問・麗澤大学特別教授 古森義久

 アフガニスタンの首都カブールの陥落では日本国民の避難がうまくいかなかった。
 現地の日本大使館が在留邦人より先に国外に逃避したことも原因だった。
 日本国は国外での日本人への危機にどう対応すべきなのか。
 この重大課題がまったく未解決のまま残ったのが今回のカブール陥落での結果だった。そこで比較にあげられるのはベトナム戦争の終結時のサイゴン陥落である。
 旧南ベトナムの首都だったサイゴンは、現在はホーチミン市と呼ばれるが、1975年4月には数百人の在留日本人を抱えたまま重大危機に迫られた。その時の日本人退避はどうだったのか。
 私は当時、サイゴンにいて、その危機を全体験した。日本人避難についてもその渦中にいた。当時の状況を報告して、今回のカブール陥落とくらべてみよう。
 二つの出来事の間には46年もの歳月があるが、日本国が海外の日本国民の生命を守れないという日本の特異現象は変わっていないのだ。いやこの特異性はむしろ悪化したような側面も目立つのである。
 
 1975年4月のサイゴンには激しい戦闘の危機が迫っていた。北ベトナム人民軍の正規部隊が進撃してきたのだ。南ベトナム政府軍も数個師団が首都の防衛にあたっていた。首都から数十キロという地域で大激戦が展開されていた。このままだと北軍は圧倒的に優勢であり、サイゴンへの突入、首都での市街戦も予想された。
 アメリカ軍はこの2年前に全面撤退していた。その後の紛争は北ベトナムと南ベトナムという二つの政府による内戦だった。
 さてこの4月上旬には南ベトナムの在住日本人一般への帰国の勧告が日本政府から出された。職業上その他の必要な理由で滞在する人を除いては国外避難すべきだという勧めだった。
 なにしろ当時の南ベトナム、つまりベトナム共和国とは日本は長年、正式の国交を結び、交流も盛んだった。だから南ベトナムには日本の各主要商社や報道機関が駐在員をおき、その家族も多数、住んでいた。
 だが北ベトナム軍の大攻勢は猛烈だった。中部高原で南ベトナム軍を撃破して、首都サイゴンへと超スピードで前進してきた。
 4月21日頃からサイゴン空港に長年、発着してきた香港やタイ、アメリカなど各国の民間航空会社が定期飛行を停止した。実際に空港近くでも小規模な砲撃や戦闘が起きていた。日本の航空会社はサイゴンには定期便を飛ばしていなかった。
 では日本国は南ベトナム滞在の日本国民の救出のためになにをしたか。
 わかりやすく箇条書きで報告しよう。
(1)日本政府は救援機を出す基本方針を固めたが、まず自衛隊機の派遣は最初から無理とされた。国内で野党、主要メディア、労働組合などが「自衛隊の海外派遣は違憲であり、軍国主義復活につながる」と猛反対したためだった。
(2)その結果、日本航空の特別救援機を派遣することになったが、当初は日航の労働組合が反対し、その乗員集めなどに時間がかかった。だが結果として非組合員の乗員らの特別機が4月29日、正午過ぎに羽田空港を出発した。現地の戦況からみれば、あまりに遅すぎた出発だった。
(3)救援機は4月29日にフィリピンのマニラ空港に着き、翌30日にサイゴン空港に飛び、脱出を希望する日本人約170人を乗せて、出発する予定だった。だがこの時点でサイゴン空港は砲撃で滑走路が破壊され、救援機は飛べなかったのだ。
(4)サイゴンに対しては4月29日から北ベトナム軍が大砲撃と大突入を開始して、翌30日には南ベトナムの政府と軍を屈服させ、首都を完全に制圧した。日本の救援機はなんと空港の発着などまったく不可能なサイゴン陥落の日にその到着が予定されていたのだ。
(5)この間、サイゴンの日本大使館は人見宏大使以下、枢要メンバーは一貫して現地に留まった。もっとももし日航の救援機が着いた場合は大使館要員の一部はそれに乗り、残りは人見大使以下は米軍の軍用ヘリで脱出する手はずができていた。だがそのいずれも実現はしなかった。
 
 以上がサイゴン陥落の際の日本人救出の幻の計画だった。
 ではカブール陥落での日本人救出についてまとめてみよう。
(1)日本政府は2021年8月、アフガニスタンの危機が高まるにつれ、当初は18日ごろまでに民間チャーター機を派遣して、在留の日本人を国外に避難させる計画だったが、15日にはタリバンが全土を制圧し、カブールが陥落して、民間機派遣は後手となった。
(2)カブールの日本大使館は8月17日、館員10数人全員がイギリス軍機で国外に脱出した。日本政府の拠点は現地にはなくなったわけだ。この結果、当初、国外避難の対象とされた日本人約500人に指示を与え、国外脱出を可能にするという日本政府の現地での義務は空洞となった。
(3)航空自衛隊のC2輸送機1機とC130輸送機2機が8月23日に日本を出発して、パキスタン経由でカブールに向かった。日本人救出のための自衛隊機派遣だった。だが今回は野党や一部メディアなどからの自衛隊海外派遣への反対はまったくなかった。
(4)自衛隊機3機は25~27日に計5回カブール空港に着いたが、主目的の邦人保護ではほぼ完全に失敗した。27日に日本人1人を乗せただけとなったからだ。アフガン国内では国外退避を望む日本人はカブール空港には着けず、また自衛隊機の飛来の情報も得られず、日本政府は本来の目的に失敗した。
 
 以上、総括すると、日本政府はサイゴンでもカブールでも、危機に面した自国民を保護し、救出するという本来の任務には失敗したことになる。
 ただしこの二つの事例で異なるのは、第一には今回は自衛隊機が現地に飛び、そのことには日本国内ではなんの反対も起きなかったのに対して、サイゴン陥落ではそもそも自衛隊機が飛べなかったことである。
 第二には、今回は現地の日本大使館がさっさと全員、国外に脱出してしまったのに対して、サイゴン陥落では日本大使館員は大使以下、みな残った点だった。
 さてこうした現代と40数年前の比較による教訓とはなんだろうか。
 やはり日本国というのは海外で生命の危険にさらされた日本国民を国家として助け、救うという基本の行動をとれない、という現実である。
 日本は主権国家の責務である自国民の保護ができない異端国家だといえよう。その原因をさかのぼれば、どうしても国家の国家たる基本要件を否定する戦後の日本国憲法にぶつかるのである。