『追悼』 屋山太郎先生

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理事・拓殖大学政経学部教授 丹羽文生

 屋山太郎先生との交流が始まったのは、勿論、日本戦略研究フォーラム(JFSS)を通じてである。何とも言えない威厳と壮麗さが漂い、些か近寄り難かったが、会長就任以降は、同じ役員として頻繁に顔を合わせるようになり、徐々に距離を縮めていった。
 先生からは度々、昔の政治家評を聞かせていただいた。「喧嘩太郎」の異名を持ち、長年に亘りジャーナリズムの世界で、数多くの大物政治家たちと対峙してきただけに、その姿は戦後日本政治史そのもの。
 「当時はカネ、カネ、カネ。角福戦争真っ只中の頃だった。(元首相の)田中角栄の側近だった早坂茂三がテーブルの上にドンと分厚い封筒を置いて、俺の方にグイッと差し出すんだ。『おい、こりゃ何だ』と聞くと、『飲み代にも使ってくれ』と言うわけ。札束だよ。『ふざけるな』と怒鳴って、指先でピンと封筒を弾き返してやった。そうしたら指先が痛くてね。煉瓦でも入ってたんじゃねぇか」
 「あれは高輪の韓国料理屋だったな。(元外務大臣の)園田直さんとメシを食ってたんだ。そうしたら『やめて下さい!』という女将の金切り声が聞こえたんだ。何事かと思って襖を開けたら(衆議院議員の)中村弘海が縁側から庭園に向かってジャーっと立ち小便をしているんだ。非常識な男だよ。頭に血が登って中村の尻を蹴飛ばしてやった。そうしたら、下にストーンと落っこちてな。背の高さくらいはあった。もう小便でズブ濡れ。『痛てぇ、痛てぇ。誰だ!』と泣き叫んでた。ソノチョク(園直)さんが『あいつとだけは揉めないでくれ』と言うので、『俺は、ああいう蛮行は嫌いなんだ』と答えると、『尻で蹴飛ばすことだって立派な蛮行じゃないか』と諫められて、2人で大笑いしたよ。ソノチョクさんって人は、なかなかの男だったねぇ」
 「(元文部大臣の)田中龍夫なんて詰まらない男だよ。一緒にラーメンを啜っていたら、『お前ら記者なんて中共からカネ貰ってるんだろ』って言いながら、蔑むような目で俺の顔を見るんだ。彼は台湾派の重鎮だったんだが、さすがに腹が立ったよ。透かさず『俺は貰ってねぇよ!』と声を荒らげて田中の頭に丼(どんぶり)ごとラーメンをぶっかけてやった」
 終始、笑いっ放しである。一方、時事通信社退社後、土光臨調(第二次臨時行政調査会)のメンバーとなったのを皮切りに、行政改革に深く携わるようになり、これをライフワークとしていただけに、官僚支配の構造が話題に上がると、途端に表情が厳しくなり、ある時、筆者が農林水産省高級官僚のJAグループへの天下り問題に触れた際は、思わずこちらが謝ってしまいそうなくらいの火を吐くような舌鋒を展開された。
 屋山先生には何度も褒めていただいた。それが筆者にとって大きな励みとなった。
「会長があなたに聞きたいことがあるんだって。連絡してみて」
 ある日の早朝、日本戦略研究フォーラムの長野禮子理事兼事務局長からショートメールが入った。早速、ご自宅に電話をしたところ、「この間、あなたが言ってたことを、もう少し詳しく教えてくれ」とのことだった。何の件かは記憶にない。説明の途中で、繰り返し「ちょっと待って」とストップが入り、そして「うんうん、それで」と続く。メモを取っておられたのだろう。
 一通りの説明が終わって電話を切ろうとしたところ、先生は「禮子さんは、あなたのことを『坊や』なんて言うけれど、やっぱり『教授』だなぁ。勉強になったよ。またメシでも食おう。これからも頼むよ」と仰って下さった。嬉しかった。このことを屋山先生が時事通信社時代の部下だった拓殖大学海外事情研究所客員教授の名越健郎先生(時事通信社外信部長)に伝えたところ、次のような反応が返ってきた。
 「屋山さんが人を褒めるなんて考えられませんよ。僕なんか叱られた記憶しかありません」
 屋山先生は2017年4月に会長にご就任、爾来、約7年間に亘って日本戦略研究フォーラムを率いて下さった。「いくら年寄りでも『名前だけ会長』っていうのは嫌なんだよ」と言いながら、大規模なシンポジウムから小規模の研究会に至るまで小まめに顔を出しては歯に衣着せぬ屋山節を披露、『季報』やホームページを通じて輪郭鮮明で小気味良い政治評論を展開された。そこには常に揺るぎない国家観があった。
 屋山先生、本当に有難うございました。これからも日本戦略研究フォーラムをしっかり支えていきます。天界では葛西副会長、安倍総理、田久保先生たちとの時事放談を楽しまれることでしょう。