《ジム・アワー氏追悼文》日米の絆―同盟から教育まで―

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顧問・麗澤大学特別教授 古森義久

 ジム・アワー氏ほど日米両国の安全保障の絆の深化に貢献した人物はまずいない。
 この日本戦略研究フォーラムへの寄与も長年にわたり、多大だった。それだけに彼の逝去はなんとも惜しまれる痛恨事である。
 アワー氏はアメリカの海軍、国防総省、さらに民間の大学にあって長年、日米同盟の両国への効用を説き、実践した。単なる親日ではなく、日本との緊密な関係はアメリカの国益に資するという考えの愛国者的な姿勢でもあった。だが同時に日本側の友人や知人への心温まる積年の支援も決して忘れられないだろう。
 アワー氏を私が知ったのは1979年、カーター政権時代だった。現役の海軍士官だった彼は掃海艇勤務で佐世保に、駆逐艦勤務で横須賀に、という日本駐留を終え、国防総省の日本部に所属していた。79年といえば、それまでの日米防衛関係が大きく変わった時期だった。
 それまで軍事には積極的ではなかったカーター大統領がソ連軍のアフガニスタンへの全面侵攻という危機に日本に対しても「着実で顕著な防衛費増額」を求めるようになった。だが防衛や軍事への忌避が強かった日本側はなかなか応じなかった。アワー氏はその難しい対日防衛関係に懸命に取り組んでいた。
 彼は根幹では温かさを感じさせる視線を日本側に向けながらも政策面ではアメリカ政府を代表する厳しさをみせた。日本側の消極的平和主義(パシフィズム)を無抵抗主義とも呼び、「火事が嫌いだから消防署をなくそうとするに等しい」と論評した。
 共和党保守のレーガン政権が誕生すると、アワー氏は国防総省の日本部長に正式に任命された。そして同政権の終わりまで8年もそのポストにあった。この間、日本製品の対米輸出が勢いを増し、米側では日本の脅威論や防衛面での「ただ乗り」非難が高まった。
 同氏はその難局を日本側の安保協力を少しずつ引き出す形で和らげていった。その背景にはレーガン大統領の対日関係では経済面の衝突を防衛面に波及させない防火壁(ファイア・ウォール)の設置という政策があった。
 政府や軍から民間に転じたアワー氏は新たな拠点を南部テネシー州のナッシュビル市に定める。中西部出身で南部にはなじみのなかった彼がテネシーに移った最大の理由は愛妻のジュディさんが実家の近くに住みたいと願ったことのようだった。
 アワー氏は89年からナッシュビルの名門バンダービルト大学の教授となり、「日米研究協力センター」を開き、所長となった。それ以後の30年ほど、彼の民間での活躍はさらにめざましかった。日本をアメリカにとっての対等に近い貴重な同盟相手にしようと多彩な努力をした。日本の防衛を自縛する米国占領軍製の憲法も改正を明確に主張した。自衛隊の国連支援の海外出動を促し、日本の集団的自衛権への禁忌を批判した。
 だがアワー氏の民間での活動で最も顕著だったのは日本側の友人知人から中堅、若手の後輩まで、アメリカでの研修や教育への長期の支援だった。その多くがアワー氏が教えるバンダービルト大学での勉学という形をとったが、夫妻がそろって心のこもった個人的な世話をすることでも知られていた。その受益者の多数がいまの日本の政界や学界、言論界で活躍している。この受け入れではアワー氏の助手のミチコ・ピーターソンという日本女性の役割も大きかった。
 私自身もこの期間のアワー氏との交流はさらに親密となった。彼が日本側でも私の知らない領域の関係者たちとの緊密な絆を保っていることに改めて感嘆させられた。その絆は当然ながらみな日米関係の安全保障面での協力の深化という主題に基づいてきた。
 私がいま顧問の一員を務めさせていただいている日本戦略研究フォーラムの実態をよく知るようになったのは、そもそもはアワー氏からの助言が契機だった。アワー氏が日ごろ日本側の民間で日米同盟の発展に努める機関として接触し、協力する存在として日本戦略研究フォーラムの名をあげていたのだ。
 そしてアワー氏は同フォーラムの活動についても知らせてくれた。ワシントンでのアワー氏との顔合わせでは、彼がまたまもなく日本に行くというと、「長野さん夫妻に会うことになっているから」と口ぐせのように語っていたのをよく覚えている。もちろん当フォーラムを運営する長野俊郎、禮子夫妻のことだった。
 実子のいなかったアワー夫妻は日本生まれのテイ、韓国出身のヘレン、アメリカ生まれのジョンエド、という3人を養子とし、実の子供と同様に育てあげたという実績もある。
 3人とも立派に成人した。テイさんは音楽の道を歩み、いまは公立学校の音楽教師、ヘレンさんは日本でのJETプログラム(若いアメリカ人大学卒業生の日本での国際関連勤務制度)を5年も果たし、いまはナッシュビルに戻って学校教員、そしてジョンエドさんは父親の足跡を追うように海軍軍人から海兵隊勤務となり、アフガンなどでの軍務を終え、いまも海兵隊将校という立場にある。
 3人ともアワー夫妻が手塩にかけて育てる長い年月を私自身も見聞してきた。とくに初等・中等教育は学校教員だったジュディさんが3人にホーム・スク―リング(家庭でのプライベートな教育)を実施するという愛情をこめていた。
 そのジュディさんもつい最近、亡くなって、アワー氏を悲しませていた。
 この夫妻の足跡を博愛とか思いやり、人道主義という言葉で特徴づけても決して誇張とはならないと思う。
 
*この追悼文は産経新聞5月18日朝刊に掲載された古森義久氏の記事に一部加筆した寄稿です。