1300人拉致事件の顛末
―「刀伊の入寇」から学ぶ今日的教訓―

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顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男

 日本史を勉強した人でも今から約1千年前、1019年に起こった「刀伊(とい)の入寇」を知らない人は多い。しかし、この出来事は日本史上で初めて発生した外国勢力(海賊ではあるが)による大規模な侵攻であり、日本人365人が殺害され、1300人近くが拉致されるという未曽有の大事件であった。
 時は平安時代、かの藤原道長が全盛を誇った頃の話である。10世紀頃から日本海周辺で海賊行為を繰り返していた東女真族——朝鮮半島・高麗国の北東辺境(沿海州)に住んでいた蛮族——が1019年の3~4月に賊船約50隻の大船団を組んで対馬、壱岐、そして九州北部を襲ったのである。彼らは、壱岐島で国司の藤原理忠を殺害した上、島民148人を殺りく、239人を拉致しており、その直前には対馬で同様の略奪・殺りく・放火をはたらいている。その上で、九州北部沿岸地域(筑前、肥前)を襲い、太宰権帥・藤原隆家率いる九州武士団と約1週間に亘って大戦闘を繰り広げた末、1300人近い日本人を拉致したまま引き揚げたという。
 この事件の顛末については、同時代の公卿・藤原実資が書き残した「小右記」という日記に詳しく記録されている。私が驚くのは、この事件に遭遇した時の朝廷(公卿)の無策振りである。殆ど何の対応もせず、全て現地任せ。自分たちは「大臣欠員騒動」という内輪の問題に明け暮れる始末である。せめて賊を撃退した九州武士団への恩賞くらいあってしかるべきだったと思うが、これも極めて不十分にしか行われていない。特に、現地で総指揮をとった最大の功労者・藤原隆家に対して何等の慰労も行われていない様子なのは理解に苦しむ。おそらく、こうした朝廷(公卿)の無策・無関心が武士団の怒りを買い、平家の台頭から鎌倉時代へとつながるその後の武士層の影響力拡大の一因になったのではないか。何人かの史家が指摘しているように、260年後の元寇が仮に(鎌倉幕府当時ではなく)この時代に起こっていたら日本はモンゴルに完全占領されていたかも知れない。
 私は、この事件は今日的教訓に満ちているように思う。昨今、東シナ海での緊張の高まりや北朝鮮の挑発的な動向に直面している我が国として、不幸にして軍事的な突発事態が発生した時に政府としてどう対応すべきなのか。第一の問題は、賊の正体が不明な中での即応のあり方である。海賊侵攻の第一報を受けた時の朝廷の判断は高麗(旧新羅勢力)が攻めてきたのではないかというものであったという。現場でも賊の正体が分からず、仮にそれが高麗の軍であれば戦闘はただちに国対国の戦争を覚悟しなければならないことになる。朝廷においては中国に誕生した新王朝・宋と良好な関係を確立したことで、対外関係を楽観視し、朝鮮半島やその北の沿海州の政治・安全保障情勢への的確な情報収集・分析が出来ていなかった。第二の問題は、万が一外敵の大規模な侵攻を受けた場合の対応策について事前の検討と現場への支持、安全への備えなどが全くなされていなかったと思われることである。少なくとも、白村江の戦い(663年)の後に臨戦の備えをとった天智・天武天皇期のような防衛体制は全く取られていなかった。第三に、事件発生後、政府による問題の重要性把握と迅速な対応策指示がなされていないことも指摘しなければならない。勿論、平安時代の当時は情報伝達手段に大きな制約があり、第一報が都に到達した頃には現場での戦いは既に終わっていたようだが、朝廷としては「終わっていた」ことを知らなかった状況下で如何なる指示を出したのかは厳しく問われねばならない。実際には戦闘状態に入っていた現場では何の役にも立たないような形式主義的な訓令を発出しただけだった。長らく続いた平和の中で、多くの公卿たちに「国を守る」という防衛意識が完全に欠落していたとしか思えない。今日、私たちが置かれている状況に照らすとき、何とも教訓に満ちた話ではないか。
 最後に、事件の後日譚になるが、日本から引き揚げた海賊団はその後朝鮮半島南部、更には北部に移動して同じような海賊行為を繰り返している。しかし、高麗の大軍によって撃退され、その際に拉致された日本人の多く(約300人)が現場海域で保護され、日本に無事送還されている。残念なのは朝廷側がこの事実を知りながら高麗側の悪しき意図を疑い何らの返礼もしていないことである。僅かの救いは現場の指揮官だった藤原隆家が独自の判断で拉致被害者を送還して来てくれた高麗使節の労をねぎらい少なくない金品を渡して友好的な行為への感謝の気持ちを伝えたらしいことである。