ツングース的特徴から窺い知る「朝鮮民族」

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顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男

 韓国の慰安婦像・徴用工像の問題にしろ、北朝鮮の核・ミサイル開発の問題にしろ、朝鮮民族の考えることは我々日本人には理解困難である。どうも思考回路が全く違っているのではないかと思われてならない。同じ東アジアのウラル・アルタイ語族に属し、外見的特徴も似ているだけに、ついつい同種同根のように思い込みがちだが、どうやら異星人とでも観念した方が理解の近道のようである。
 最近、「儒教の影響」という観点から朝鮮民族(及び中国人)の思考法を解説し、我々日本人との違いを説明する議論が流行している。祖先崇拝・古礼墨守の習慣から礼教主義による秩序感覚に至るまで正に儒教の教えそのものであり、上下序列の華夷思想もそこに由来する。中国・春秋時代の孔子の教え、そして南宋時代の朱子の哲学が精神の髄にまで沁みついている。人を人らしくするための思想体系として紀元前の中国人が絞り出し、滅亡の末路にある王朝が心の拠りどころとした哲学が朝鮮民族の心の奥深くに今日なお息づいているとすれば、それはそれで驚嘆に値する。
 しかし、「儒教の影響」だけで朝鮮民族の行動パターンの全てを理解しようとすると(当然ながら)無理が生じる。つまり、儒教の教えはそれ自体いかに濃厚なものであったとしても言わば(教育を通じて事後的に身に着けた)「獲得形質」のようなもので、民族の原型という「素」の部分を説明することにならないからである。この点では朝鮮民族の出自に遡って彼らの「民族的特徴」を解析する必要があるように思われる。
 朝鮮民族が人種的にツングース系に属することには異説がない。朝鮮半島の歴史時代は「三国時代」(あるいはその前の「三韓時代」)に遡るが、高句麗の始祖・朱蒙は沿海州の扶余(満州ツングース系の一族)の生まれとされ、百済はその弟が建国した(と伝えられる)。いずれも紀元前1世紀のことである。半島南東部の新羅の場合、その建国神話では土着諸族の統合によって国王が選ばれた韓族の国とされているが、歴史を更に遡れば、その韓族自体が満州方面から南下してきたのではないか。まあ、いずれにしろ、統一新羅、高麗、李氏朝鮮という半島統一国家の栄枯盛衰の過程でツングースの血が朝鮮民族の中に濃厚に沈殿していったであろうことは疑う余地がない。
  では、ツングースとはいかなる民族的特徴を有する人たちなのか。勿論、私は民族学者ではないので自説を展開することは出来ない。そのため、1つの便法として司馬遼太郎氏が街道をゆくシリーズの第2巻「韓(から)のくに紀行」で詳述しているツングース論を借用する。司馬氏は朝鮮民族が古代ツングースの特徴を濃厚に持っているとした上で、「朝鮮人は世界でもっとも政治論理のするどい民族だと思っている。政治論理というのは奇妙なもので、鋭どければ鋭いほど物事を生まなくなり、要するに不毛になっていく性質のものだ」と言い、また「政治論理という、この鋭利で、そして鋭利なほど一種の快感をよび、また快感をよべばよぶほど物事が不毛になるという危険な抽象能力」との指摘もある。別の箇所では朝鮮人の思考法式に触れ「怨念が強烈な観念になって事実認識というゆとりを押し流してしまう。・・・どう考えてもツングース人種の固有の精神体質としか言いようがない」、「朝鮮人のもつ観念先行癖――事実認識の冷静さよりも観念で昂揚すること――やそれがための空論好きという傾向」、「現実直視能力というものは残念ながらあまりない。このことは概して朝鮮知識人の通弊である」との件もある。また、司馬遼太郎氏は「怒れるツングース」の姿を目撃しては面白がっている風がある。「韓国人というのは怒りっぽい民族だ」、「韓国人が喧嘩相手をののしるとき、まことに苛烈である」、「感情と表現の激烈さは朝鮮民族のごくありふれた特徴」、「自分の観念の中にある観念的な日本人像にむかって爆発を繰り返しているために、罵詈罵倒はもはや儀式のようになっている」といった記述が随所に見られる。誠に同感である。
 なお、司馬氏の指摘する「朝鮮人の観念先行癖」に関連して私個人として思い当たることがひとつある。それは銅像、石像、木像のいかんを問わず、朝鮮人が「像」を好むことである。朝鮮半島には(北朝鮮の巨大な金日成・金正日像は言わずもがな)至る所に過去の将軍ら歴史上の人物の立像がある。ベトナム在勤中に聞いた話では、ベトナム戦争に参戦した韓国軍は主な戦闘の現場現場に指揮官の石像を立て残していったと言う。勿論、戦争後、これらの立像は全て破壊され、今は残っていない。私は、朝鮮人の場合、「観念」という抽象的なものを具象化する手段として「像」を作り続けたのではないかと思う。それによって一度生まれた観念は事実がどうであったかとは無関係に固着する。現在の慰安婦像や徴用工像への韓国人の異様な執着はどうもこの辺りの民族性と関係がありそうである。とにかく私たちは「怒れる朝鮮民族」とうまく付き合っていかなければならない。