【特集】混迷の時代
 ―日本の覚悟と備え―

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拓殖大学学事顧問 渡辺利夫

 インド太平洋の現状変更勢力が中国であることに疑いはありません。これに抗してインド太平洋の勢力均衡を辛くも保持する力量をもつメカニズムが日米同盟です。国際秩序を守るメカニズムが勢力均衡だという論理の基本には、古典も現代もありません。違いは、現代の勢力均衡のありようが、古典の時代に比べて格段に複雑化し、その分だけ高度の戦略的思考と情勢分析能力が必要だということです。

 集団的自衛権は、個別的自衛権とセットになって全ての主権国家に賦与されている固有の権利に他なりません。中国の尋常ならざる軍拡を前にしながら、憲法の制約のゆえになおこの固有の権利までが認められないというのであれば、帰結は憲法を国民の生命と財産の上位に置くという倒錯です。個別的自衛権をもって外敵に対処可能だと主張する者が私の周辺にもおります。本気でそんなことを考えているのかといっても、さしたる論理もなくただそういっているだけのようです。腹を立てて私はこう言います。国益の核心への侵犯がいよいよ差し迫り、それでもなお座して死を待つ国家などどこにあるか。

 個別的自衛権の法的な閾いき値ち を大きく超えて他国の領域に侵入せざるを得なくなる羽目に日本が陥る危険性は、国家が生存本能をもつ存在である以上、十分にあり得る。その程度の想像力を何故あなたはもてないのか、というのですが、左翼リベラリズムのセンチメントを胸に深く刻んだその人は何の共感も示してはくれません。

 アメリカの覇権の大樹の陰に身を隠し、秘やかにも安穏な人生を送ることができた時代は、もはや完全に過去のものです。戦争はいかにも非道です。山梨県の甲府市で生まれ育った少年時代、甲府がアメリカ軍の大空襲によって壊滅させられ、死線を彷徨った私には戦争が非道なものであることはよくよくわかります。しかし、ならばその非道の抑止にはいかなる戦略が最適かに関心を向けないわけにはいかない。そうでなければ、人生の平ひょう仄そくが合わないではないか、という気分を私は拭ぬぐえないのです。福澤諭吉といえば「文明開化」なる用語を編み出し、著作『西洋事情』『文明論之概略』により維新期日本の欧化政策に絶大なる寄与をなした啓けい蒙もう思想家だといわれて久しいのですが、その福澤の思想的立脚点が「立国は私なり、公に非ざるなり」であったことを忘れてはならないと私は考えます。