米国の国防総省元日本部長でバンダービルト大学の名誉教授でもあったジェームズ・アワー氏の遺骨を日本の海に葬る儀式が7月12日、舞鶴沖で催された。アワー氏はこの日本戦略研究フォーラムへの関与も長く、フォーラムの特別顧問だった。アワー氏とは長年の交流のあった私も海上自衛隊の掃海母艦「ぶんご」の艦上でのこの葬礼に加わり、弔意を表したが、儀式は厳粛ななかでも故人の豊かな人間性を反映してか、温かい雰囲気に包まれた。
この海上葬礼の儀式は昨年5月に82歳で死去したアワー氏の「自分の遺骨を海上自衛隊の掃海艇から日本の海へ水葬してほしい」という遺言に沿って日米共同で実施された。アワー氏の日米同盟や安全保障関係への多大な貢献については当フォーラムの私の寄稿コラム「内外抗論」の2024年5月20日掲載分で詳述した。日米同盟の深化だけでなく、日本側の安全保障の官民の関係者との交流も広範で、若手の自衛官、学者、政治家、言論人など日本側でアワー氏の指導を受けた人たちも数え切れない。
米海軍軍人としてのアワー氏は当初、横須賀基地などを拠点とする掃海艇の勤務が長かった。
「遺骨を日本の海で」の葬礼をとくに日本の海上自衛隊の掃海艇で、と望んだのもそのためだった。
日本側では海上自衛隊全体がアワー氏の遺言を尊重する形で、海上での異例の散骨の葬礼を実施した。アワー氏の遺族たちが遠路アメリカから参列したことも、この儀式への日米双方の深い弔意や愛惜を感じさせた。
7月12日午前9時、舞鶴の海上自衛隊基地を出航した「ぶんご」は1時間ほどの航行で、舞鶴湾沖の海上に出た。この朝、舞鶴は穏やかな天気に恵まれた。5,000トンとされる同艦の広い甲板で儀式は催された。同鑑の通常の乗り組みは120人ほどだが、この葬礼のために集まった海上自衛隊の幹部多数や儀仗兵のような制服の隊員の姿も目立った。中心となったのはアワー氏の遺族で、3人の子と4人の孫だった。その他にアワー氏の日本側のかつての同僚や友人、教え子も加わって、合計70人ほどが艦上に整然と並び、弔意を表した。
儀式ではまず主催者側の海上自衛隊を代表して斎藤聡海上幕僚長が挨拶した。
「アワー氏の海上自衛隊への貢献は偉大であり、これまで師事した隊員はいまや日本の海上防衛戦略の中核を担っている」
その後にすぐアワー氏への追悼を述べたのは在日アメリカ海軍司令官のイアン・ジョンソン少将だった。
「アワー氏はきわめて貴重なアメリカ海軍と海上自衛隊の信頼できる橋渡し役だった。アワー氏自身の長年の現役の海軍軍人としての貢献も偉大だった」
アワー氏に直接の教育や指導を受けた日本側の代表としては現役の衆議院議員である長島昭久氏が謝意と弔意を述べた。長島氏は現在、石破政権での国家安全保障担当の首相補佐官でもある。同氏は20数年前、テネシー州ナッシュビルのバンダービルト大学や同大学付属の「日米研究センター」で合計2年ほどもアワー氏の薫陶を受けた。
「私の今日あるのはアワー先生のお陰だといえる。ナッシュビルでは私ども一家がアワー夫妻に全面的にお世話になった。そこを去る際にはアワー氏は最後まで見送りに来てくれて、私と妻は感激と感謝のあまりに思わず号泣した」
アワー氏の遺骨の一部は本人の遺言どおりに艦上から星条旗に包まれた壺に入れられ、日本の海に静かに葬られた。その水葬はアワー氏の遺族全員が脇に立ち、見送った。
アワー氏は実子がなく、ジュディ夫人とともに早い時期に日本生まれのテイイチロウさんを長男として、韓国生まれのヘレンさんを長女として、そして米国生まれのジョンエドさんを次男として養子とし、育てた。この葬礼でも3人の成人した子供たちはそれぞれ父親への追悼と、この葬礼への感謝の意を述べる挨拶をした。テイイチロウ、ヘレンさんの両人はともに学校教員、ジョンエドさんは米国海兵隊の現役少佐を務めている。
3人とも既婚で、この日は夫人が最近、出産したばかりのジョンエドさん以外は配偶者とともに参列した。またテイイチロウさんの子供、つまりアワー夫妻の孫にあたる4人がそれぞれ黒い喪服で葬列に加わり、最後まで礼儀正しく身を処していたのが印象的だった。14歳の長男のノア、13歳の長女ソフィア、11歳の次女シャーロット、7歳の三女リディアという名の孫たちだった。アワー家のよき伝統が確実に保たれていくと感じさせられる情景だった。